2019/03/07
薩長同盟
3月7日
木曜日
薩長同盟
1866年3月7日
(慶応2年1月21日)
薩摩藩と長州藩との間で薩長同盟が成立する。
長州・薩摩間の和睦は、
第一次長州征討中止の周旋や、
五卿の太宰府延寿王院への受け入れに奔走していた
福岡藩の尊皇攘夷派による
高杉晋作と西郷隆盛との会談
(対帆楼会談)を行ったことや、
イギリスの駐日公使であるハリー・パークスが
高杉晋作と会談したり、
薩摩や同じく幕末の政界で影響力を持っていた
土佐藩を訪問したりするなどして
西南の雄藩を結びつけさせたことに始まる。
土佐藩の脱藩浪人で、
長崎において亀山社中(後の海援隊)を率いていた
坂本龍馬や中岡慎太郎の斡旋もあって、
主戦派の長州藩重臣である
福永喜助宅において会談が進められ、
下関での会談を西郷が直前に拒否する事態もあったが、
1月21日(18日、22日説も)
小松邸で坂本を介して
薩摩藩の西郷、小松と長州藩の木戸貫治が
6か条の同盟を締結した。
他の薩摩側出席者は
大久保、島津伊勢、桂久武、吉井友実、奈良原繁。
その後の王政復古や
戊辰戦争への第一段階の様に置かれることが多いが、
以下に認められる様に、
幕府による長州藩処分問題に関して、
長州藩の状況が悪くなっても
薩摩藩は長州藩を支援するという内容であり、
共に倒幕へ向けて
積極的に動き出そうとするものではない。
また、「決戦」の相手として想定されているのは、
幕府そのものではなく「橋会桑」
(当時京都政局を制圧していた
一橋慶喜、松平容保(会津藩)、松平定敬(桑名藩)の3者。いわゆる一会桑政権)である。
一橋徳川家当主の慶喜は
固有の軍事力を殆ど保有しておらず、
軍事的対決の相手としては
会津・桑名両藩、
とりわけ会津藩を想定するものであった。
この密約に基づいて
薩摩藩は幕府による第二次長州征討に際し出兵を拒否し、以後薩長の連携関係は深まっていくこととなった。
薩摩藩士で、
明治期には島津久光の側近として
歴史編纂事業に従事した市来四郎は、
薩摩藩と長州藩の提携が成立したのは
より後年の1867年(慶應3年)11月、
薩摩藩主島津茂久が
多数の兵士を引き連れて上洛する際に
長州藩世子毛利広封と会見し、
出兵協定を結んだ時点であると指摘している。
2019/03/07
消防記念日
3月7日
木曜日
消防記念日
1950年(昭和25年)に
国家消防庁(現在の消防庁)が制定。
1948年(昭和23年)3月7日
消防組織法が施行され、
明治以来警察の所管とされていた消防が
警察から独立して消防庁の所管となった。
現在は
総務省消防庁ですね❗
2019/03/06
お客様の声
3月6日
水曜日
お客様の声
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