2024/02/22
乃木坂46の日
2月22日
木曜日
乃木坂46の日
乃木坂46のデビューシングル
「ぐるぐるカーテン」の発売日である
2012年(平成24年)2月22日を由来とする。
所属事務所である
乃木坂46合同会社が制定。
オッサンですが
実は
乃木坂46が大好きです。
他に
忍者の日
食器洗い乾燥機の日
なまずの日
おでんの日
猫の日
猫背改善の日
駅すぱぁとの日
行政書士の日
温泉マークの日
太子会の日
記念日が多数ありますね。
2024/02/22
竹島の日
2月22日
木曜日
竹島の日
2005年(平成17年)3月16日
島根県議会が制定。
1905年(明治38年)1月28日
竹島の島根県への編入を閣議決定し、
同年2月22日に
島根県知事が所属所管を
明らかにする告示を行ったことに由来
(明治38年島根県告示第40号)。
2024/02/21
ドラマ大奥 主要登場人物 田沼意次
2月21日
水曜日
ドラマ大奥
主要登場人物
田沼意次
(江戸幕府老中)
(安田 顕)
田沼 意次(たぬま おきつぐ)は、
江戸時代中期の旗本、大名、江戸幕府老中。
遠江相良藩の初代藩主(相良藩田沼家初代)。
第9代将軍徳川家重と第10代家治の治世下で
側用人と老中を兼任して幕政を主導し、
この期間の通称である
「田沼時代」に名前を残す。
宝暦11年(1761年)
家重が死去した後も、
その子の第10代将軍徳川家治の信任が厚く、
破竹の勢いで昇進し、、
明和4年(1767年)には
御側御用取次から板倉勝清の後任として
側用人へと出世し、5000石の加増を受けた。
さらに従四位下に進み
2万石の相良城主となって、
明和6年(1769年)には
侍従にあがり老中格になる。
安永元年(1772年)、
相良藩5万7000石の大名に取り立てられ、
老中を兼任し、
前後10回の加増でわずか600石の旗本から
5万7000石の大名にまで昇進し、
側用人から老中になった初めての人物となった。
順次加増されたため、
この5万7000石の内訳は
遠江国相良だけでなく駿河国、下総国、相模国、三河国、和泉国、河内国の7か国14郡にわたり、
東海道から畿内にまたがる分散知行となった。
この頃より、
老中首座である松平武元など
意次を中心とした幕府の閣僚は、
数々の幕政改革を手がけ、
田沼時代と呼ばれる権勢を握る。
吉宗時代の質素倹約は、
幕府の財政支出の減少のみならず、
課税対象である農民にも倹約を強制し、
それによって幕府財政は大幅な改善を見たが、
この増税路線は
9代将軍家重の代には
百姓一揆の増発となって現れ、破綻した。
そして、
幕府領における一揆ではないものの、
意次は郡上一揆の裁定を任されたことから、
農民に対する増税路線の問題を
目の当たりにする立場であった。
宝暦期に起こった
郡上一揆などの民衆の反発の激化と天災地災の多発から、幕府幕閣は米以外の税収入を推し進める。
内容は
株仲間の推奨、銅座などの専売制の実施、
鉱山の開発、蝦夷地の開発計画、俵物などの専売、
下総国印旛沼や手賀沼の干拓に着手するなど、
田沼時代の財政政策は
元禄時代のような貨幣改鋳に頼らない、
さまざまな商品生産や流通に広く薄く課税し、
金融からも利益を引き出すなどといった
大胆な財政政策を試みた。
しかし、
田沼時代の政策は
幕府の利益や都合を優先させる政策であり、
諸大名や庶民の反発を浴びた。
また、
幕府役人の間で賄賂や縁故による人事が横行するなど、
武士本来の士風を退廃させたとする批判が起こった。
都市部で町人の文化が発展する一方、
益の薄い農業で困窮した農民が田畑を放棄し、
都市部へ流れ込んだために農村の荒廃が生じた。
大規模な開発策や大胆な金融政策など、
開明的で革新的な経済政策と呼ばれる意次の政策は、
いわば大山師的な政策だった。
この時代、
利益追求の場を求め民間から様々な献策が盛んに行われ、民間の利益追求と幕府の御益追求政治とが結びつき、
かなり大胆な発想と構想の政策が立案・執行された。
だが、
その収入増加策の立案、運用は
実のところ場当たり的なものも多く、
利益よりも弊害の方が目立つようになって
撤回に追い込まれるケースも多発していた。
そして
幕府に運上金、冥加金の上納を餌に
自らの利益をもくろんで献策を行う町人が増え、
結果的に幕府も庶民も得にならなかった
政策を採用することもあった。
そのような
町人の献策を幕府内での出世を目当てに
採用していく幕府役人が現れ、
町人と幕府役人との癒着も目立つようになった。
同時に
田沼時代の代名詞である
賄賂の横行や幕府と諸藩との利益の衝突、
負担を押し付けられた民衆との間に
深刻な矛盾も生じさせた。
このような風潮は
「山師、運上」という言葉で語られた。
しだいに
利益追求型で場当たり的な面が多く、腐敗も目立つ
田沼意次の政策に対する批判が強まっていく。
天明4年(1784年)、
意次の世子のまま若年寄を勤めていた
田沼意知が
江戸城内で佐野政言に暗殺されたことを契機とし、
権勢が衰え始める。
天明6年(1786年)8月25日、
将軍家治が死去した。
死の直前から
「家治の勘気を被った」として
その周辺から遠ざけられていた意次は、
将軍の死が秘せられていた間
(高貴な人の死は一定期間秘せられるのが通例)に
失脚するが、この動きには
反田沼派や一橋家(徳川治済)の
策謀があったともされる。
意次は
8月27日に老中を辞任させられ、
雁間詰に降格した。
閏10月5日には
家治時代の加増分の2万石を没収され、
さらに大坂にある蔵屋敷の財産の没収と
江戸屋敷の明け渡しも命じられた。
その後、
意次は蟄居を命じられ、2度目の減封を受ける。
相良城は打ち壊され、
城内に備蓄されていた8万両のうちの
1万3千両と塩・味噌を備蓄用との名目で没収された。
長男の意知はすでに暗殺され、
他の3人の子供は全て養子に出されていたため、
孫の龍助が陸奥下村1万石に減転封のうえで、
辛うじて大名としての家督を継ぐことを許された。
同じく軽輩から側用人として権力をのぼりつめた
柳沢吉保や間部詮房が、
辞任のみで処罰はなく、
家禄も維持し続けたことに比べると、
最も苛烈な末路となった。
その2年後にあたる
天明8年(1788年)6月24日、
意次は江戸で死去した。
享年70。