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2023/12/18

「どうする家康」徳川家康家臣団列伝 南光坊天海

12月18日
月曜日

「どうする家康」
徳川家康家臣団列伝

南光坊天海
(小栗 旬)

天海(てんかい、天文5年(1536年)?
~寛永20年10月2日(1643年11月13日))

安土桃山時代から
江戸時代初期にかけての天台宗の僧、
大僧正。

尊号は南光坊(なんこうぼう)、
院号は智楽院(ちらくいん)、
諡号は慈眼大師(じげんだいし)。

天海としての足跡が明瞭となるのは、
無量寿寺北院に来てからである。

この時、
江戸崎不動院の住持も兼任していた。

浅草寺の史料によれば北条攻めの際、
天海は浅草寺の住職・忠豪とともに
徳川家康の陣幕にいたとする。

これからは、
天海はそもそも家康のために
関東に赴いたことがうかがえる。

豪海の後を受けて、
天海が北院の住職となったのは
慶長4年(1599年)のことである。

その後、
天海は家康の参謀として朝廷との交渉等の役割を担う。

慶長12年(1607年)に
比叡山探題執行を命ぜられ、
南光坊に住して延暦寺再興に関わった。

ただし、辻達也は、
天海は慶長14年(1609年)から
家康に用いられたとしている。

この年、権僧正に任ぜられた。

また慶長17年(1612年)
無量寿寺北院の再建に着手し、
寺号を喜多院と改め関東天台の本山とする。

慶長18年(1613年)
家康より日光山貫主を拝命し、
本坊・光明院を再興する。

大坂の陣の発端となった
方広寺鐘銘事件にも深く関わったとされる。

元和2年(1616年)
危篤となった家康は神号や葬儀に関する遺言を
同年4月に大僧正となった天海らに託す。

家康死後には
神号を巡り以心崇伝、本多正純らと争う。

天海は「権現」として
自らの宗教である山王一実神道で祭ることを主張し、
崇伝は家康の神号を
「明神」として
古来よりの吉田神道で祭るべきだと主張した。

2代将軍・徳川秀忠の諮問に対し、
天海は、
豊臣秀吉に豊国大明神の神号が贈られた後の
豊臣氏滅亡を考えると、
明神は不吉であると提言したことで
家康の神号は「東照大権現」と決定され
家康の遺体を久能山から日光山に改葬した。

その後3代将軍・徳川家光に仕え、
寛永元年(1624年)には忍岡に寛永寺を創建する。

江戸の都市計画にも関わり、
陰陽道や風水に基づいた江戸鎮護を構想する。

紫衣事件などで
罪を受けた者の特赦を願い出ることもしばしばであり、
大久保忠隣・福島正則・徳川忠長などの
赦免を願い出ている。

これは輪王寺宮が特赦を願い出る
慣例のもととなったという。

堀直寄、柳生宗矩と共に沢庵宗彭の赦免にも奔走した。

寛永20年(1643年)
108歳で没したとされる。

その5年後に、
朝廷より慈眼大師号を追贈された。

天海は生前に
日本での一切経(大蔵経)の印刷と出版を企図。

慶安元年(1648年)には、
天海が着手した『寛永寺版(天海版)大蔵経』が、
幕府の支援により完成した。

天海による
これらの経典の出版は日本の印刷文化史上、
最も重要な業績の一つと言われている。

天海が作製させた
膨大な木製活字(天海版木活字)は
26万個以上が現存している。

慈眼堂 - 輪王寺にある天海の廟所(国の重要文化財)
慈眼堂 - 喜多院にある天海の廟所(国の重要文化財)
慈眼堂 - 大津市坂本にある天海の廟所(滋賀県指定文化財)

「どうする家康」徳川家康家臣団列伝  南光坊天海

2023/12/17

兵庫消防団第六分団 12月の定期訓練

12月17日
日曜日

兵庫消防団第六分団

12月の定期訓練

浜山校区防災福祉コミュニティ
防災訓練

浜山小学校にて
地域住民の人たちに対して
放水訓練や水消火器などのご指導にあたりました。

寒くなったのも影響してか
参加者が予定よりは少なかったですが

小学生たちにも
参加して貰えたのは有意義でした。

兵庫消防団第六分団  12月の定期訓練

2023/12/16

電話創業の日

12月16日
土曜日

電話創業の日

1890年(明治23年)12月16日

東京市内と横浜市内の間で
日本初の電話が開通したことに由来。

電話創業の日