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2022/06/16

和菓子の日

6月16日
木曜日

和菓子の日

全国和菓子協会が
1979年(昭和54年)に制定。

嘉祥元年(848年)
疫病退散を祈念するため元号を
「嘉祥」と改元し
6月16日に16
の数にちなんだ菓子・餅を神前に供えたという
「嘉祥菓子」の故事に由来。

平安中期の承和年間、
国内に疫病が蔓延した。

仁明天皇は年号を嘉祥と改め、
その元年(848年)の6月16日に、
16個の菓子や餅を神前に供えて、
疾病よけと健康招福を祈ったとされる。

これを起源として、
6月16
日に厄除け・招福を願って菓子を食う
「嘉祥菓子」の習俗が、
さまざまに形を変えながら、
平安期から中世・近世まで存続した。

江戸幕府においては、
6月16日を嘉祥の日とし、
お目見え以上の身分のものには
大広間で和菓子が与えられた。

和菓子の日

2022/06/15

衣川の戦い

6月15日
水曜日

衣川の戦い

1189年6月15日
(文治5年閏4月30日)

源義経追捕の宣旨により
藤原泰衡が衣川館を襲う。

源義経は自害。

衣川の戦い(ころもがわのたたかい)は、
陸奥国衣川館で
藤原泰衡が源義経主従を自害させた戦い。

奥州藤原氏三代・藤原秀衡は
関東以西を制覇した源頼朝の勢力が
奥州に及ぶことを警戒し、
義経を将軍に立てて鎌倉に対抗しようとしたが、
文治3年(1187年)10月29日に病没した。

頼朝は秀衡の死を受けて
後を継いだ藤原泰衡に、
義経を捕縛するよう朝廷を通じて強く圧力をかけた。

一方、義経は
文治4年(1188年)2月に出羽国に出没し、
鎌倉方と合戦をしている。

また
文治5年(1189年)1月には
義経が京都に戻る意志を書いた手紙を持った
比叡山の僧が捕まるなど、再起を図っている。

しかし
泰衡は再三の鎌倉の圧力に屈して、
「義経の指図を仰げ」という父の遺言を破り、
閏4月30日、500騎の兵をもって
義経主従を藤原基成の衣川館に襲った。

義経方は、
主従の武蔵坊弁慶、鈴木重家、亀井重清らが
わずか10数騎で防戦したが、
ことごとく戦死・自害した。

館を
平泉の兵に囲まれた義経は、
一切戦うことをせず持仏堂に篭り、
まず正妻の郷御前と4歳の女子を殺害した後、
自害して果てた。

享年31であった。

衣川の戦い

2022/06/14

中ピ連

6月14日
火曜日

中ピ連

1972年(昭和47年)6月14日

榎美沙子ら
「中絶禁止法に反対しピル解禁を要求する女性解放連合」(中ピ連)を結成。

中絶禁止法に反対し
ピル解禁を要求する女性解放連合
(ちゅうぜつきんしほうに はんたいし
ピルかいきんを ようきゅうする じょせいかいほう
れんごう)

1970年代前半に活動した
戦闘的な日本のウーマンリブ団体である。

中ピ連の略称で知られた。

代表は元薬事評論家の榎美沙子。

新左翼のものを模した、
♀印のついたピンク色のヘルメットと
過激な活動内容でマスメディアを賑わせ、
当時の社会現象となった。

当時日本では、
経口避妊薬(ピル)が薬事法で規制され、
厚生省の医療用医薬品に
認められていなかったので、
これを女性への抑圧と解釈することにより、
ピルの販売自由化要求運動を展開した。

1974年(昭和49年)には、
有志で下部組織
「女を泣き寝入りさせない会」を結成、
妻に訴えられた夫の職場や、
女性を蔑視しているとみなされた
団体の本部など、集団で押しかけ、
吊るし上げを行う事で恐れられ、
一躍有名になった。

このスタイルには、
部落解放同盟などの
確認・糾弾の影響が見て取れる。

榎はその後中ピ連を母体とし、
中ピ連の活動精神を継承する形で
『日本女性党』を結党。

「内閣はすべて女性とする」
「公務員はすべて女性とし、
男性は臨時職員かアルバイトとする」など、
両性の平等や、
後の男女共同参画の理念を超えた
過激な政策を掲げた。

これはレスビアン・セパレーティズム
(レズビアン分離主義。
女性だけの共同体社会をつくることを目指す)や、
女尊男卑
または男性差別的な
イデオロギーとも通底していた。

日本女性党は
後の参議院選挙では
全員が落選しています。

余りにもエスカレートし過ぎて
そのうち
女性からも支持を得られなくなった訳ですね。

中ピ連