2021/07/28
なにわの日
7月28日
水曜日
なにわの日
七(な)二(に)八(は)で
「なにわ」(難波・浪速)の語呂合せ。
別読み:なみはや(転訛する前)、
なには(歴史的仮名遣)
漢字:難波(「なんば」の別読み)、
浪速、浪花、浪華
万葉仮名:奈尓波、奈仁波
漢字、万葉仮名は
特に読み方が表記されていなければ
「なにわ」と読む。
浪速
摂津国東成郡・西成郡一帯の古称、浪速国。
現在は
南隣の住吉郡の旧郡域を含め
大阪市域の古称・別称として定着している。
古代から難波、浪花表記も多く、
大都市となった近世以降は浪華表記も多用された。
稀だが、
摂津国全域、大阪府域に拡大した使用例も散見される。
2021/07/27
自転車屋の生き物歳時記 アオバアリガタハネカクシ
7月27日
火曜日
自転車屋の生き物歳時記
アオバアリガタハネカクシ
昨日
こいつを見かけた。
一見
アリのように見えるが
腹部が細長く良く見るとアリではない事が分かる。
触れると皮膚が腫れ上がる毒虫❗
ご注意下さい‼️
アオバアリガタハネカクシ
(青翅蟻形隠翅虫、Paederus fuscipes)とは、
コウチュウ目ハネカクシ上科ハネカクシ科
アリガタハネカクシ亜科に属する昆虫。
名称の由来は上翅が青色であることからである。
体長約7mmほどで細長く、
頭部と腹部末端が黒く、
その他の体節は橙赤色で、
アメリカ大陸以外の世界各地に分布しており、
主に温暖な湿地に生息する。
日本ではほぼ全土に生息し、
山里付近や、畑、水田などで見られる場合がある。
灯火にも飛来するが、
これが後述する本種による被害を起こす
要因になっているといわれる。
体液中に有毒物質ペデリンを含み、
人間の皮膚に体液が付着すると、
火ぶくれのような膿疱を伴う線状皮膚炎
(ミミズ腫れ)を引き起こすことから、
ヤケドムシ、やけど虫、デンキムシとも呼ばれる。
体液がついてから
発症するまでに多少の時間がかかるため、
患者はその原因が自分の肌から少し前に払い落とした
小昆虫の体液にあることに気がつきにくく、
突然生じるミミズ腫れに当惑することになる。
そのため地方によっては
家屋内を徘徊する
ヤモリの尿が付着したためとする俗信を生み、
これを俗に「ヤモリのしょんべん」とも呼ぶ。
本種の学名は、
その体内毒が由来となっており、
身体が小さい上にハネカクシの仲間だけによく飛翔し、
灯火にも飛来して知らずに潰して
被害に遭うケースになり、
誤って目に入ってしまったのを潰すと、
失明する恐れもあり、衛生害虫ともなっており、
目立つ色合いは毒を持つ警告色だといわれる。
ほぼ一年通して発生するが、
年3回ほどとされ、
もっとも個体数が増えるのは7,8月とされる。
オスは越冬せずに死ぬが、
メスは越冬して翌年に産卵する。
産卵場所は土中で、
約3〜19日で孵化し、幼虫は10〜50日で2齢を経て成熟し、 蛹室をつくって踊になり、
3〜12日後に成虫が羽化する。
雑食性だが、
ウンカやヨコバイという農業害虫を好んで捕食する為、
農業では益虫とされる。
2021/07/27
太閤検地
7月27日
火曜日
太閤検地
1582年7月27日
(天正10年7月8日)
太閤検地
羽柴秀吉が近江で初めて検地を行う。
太閤検地(たいこうけんち)は、
豊臣秀吉が日本全土で行なった検地
(田畑(山林は除く)の測量及び収穫量調査)。
天正の石直し、文禄の検地ともいう。
領主が自領内に課税するにあたり、
その基礎資料として自領内の地勢を把握することは
非常に重要ではあったが、
家臣や領内の有力一族の抵抗が大きいため
実施は難しいとされていた。
しかし
北条早雲に始まる戦国大名の出現で、
自らの軍事力と裁判権を背景に
独自の領地高権を行使することを可能とした。
この行使の一例が検地であった。
織田信長も検地を実施していた
(これを信長検地とよぶことがある。)が、
このとき奉行人であった木下藤吉郎(後の秀吉)も
すでに実務を担当していたことが知られており、
その重要性を把握していたとみられる。
天正10年(1582年)
信長を襲った明智光秀を山崎で討った後には、
山崎周辺の寺社地から台帳を集め
権利関係の確認を行うなど検地を本格化させていく。
これらの、
太閤を名乗る天正19年(1591年)
以前からのものを含め、
秀吉が関わった検地を太閤検地とよぶ。
この集大成として
関白を辞して太閤となった秀吉は、
将軍に上納されて叡覧に備用される
「御前帳」になぞらえ、
検地によって得られた膨大な検地帳を元に、
国ごとに秀吉が朱印状で認めた
石高を絵図を添えて提出するよう
指令を出して徴収させた。
これを「天正御前帳」という。
太閤検地の成果は、
権利関係の整理や単位統一が図られた
革新的な意味をもつのみでなく、
農民への年貢の賦課、
大名や家臣への知行給付、軍役賦課、家格など、
その後の制度、経済、文化の基礎となる
正確な情報が中央に集権されて把握されたことであり、
その意義は大きい。
後に徳川家康も、慶長9年(1604年)に
単位を国から郷に改めて
御前帳と国絵図を徴収している(慶長御前帳)。