ブログ

2019/03/10

吉野家 超特盛

3月10日
日曜日

吉野家 超特盛

新発売の超特盛を食べてみた。

クーポンを使って玉子と味噌汁は無料。

箸を突っ込むと
肉が中段からも出て来て感動する!

肉の量は大盛の2倍なので
充分に堪能できる量だった。

ご飯が大盛りなのは
オイラにはちと多くてキツイな。

オイラはやっぱり
並盛の頭大盛がええかな😅

吉野家  超特盛

2019/03/10

自転車屋の生き物歳時記 ハシブトガラス

3月10日
日曜日

自転車屋の生き物歳時記

ハシブトガラス

暖かくなってきたからなのか
最近はカラスの鳴き声が
やたらと耳に付くようになってきました。

阪神淡路大震災の時に
震災の一週間ぐらい前から
カラスが神戸市内から
姿を消していたらしく
奴等には大地震を予知する能力があるんだと
感心しましたので
カラスが鳴いてくれてる間は安全なんだなと
いつも胸を撫で下ろしています。

ハシブトガラス
(嘴太烏、学名:Corvus macrorhynchos)は、
スズメ目カラス科カラス属に分類される鳥類の一種。

日本で「カラス」といえば本種か
ハシボソガラスを指すのが一般的である。

ユーラシア大陸東部(東洋区、旧北区東部)に分布する。

日本では留鳥として、
小笠原諸島を除き全国で、
低地から山地まで幅広く分布する。

全長56cm、翼開長100cm、
体重550~750gほどで、
全身が光沢のある黒色をしており雌雄同色。

ハシボソガラスに似るが
やや大きく、嘴が太く上嘴が曲がっているところと、
額(嘴の上)が出っ張っているところで判別できる。

なお、
突然変異で白い個体が出現することもあり、
これはアルビノまたは白変種と考えられる。

英名 "Jungle Crow" も示すように、
元来は森林に住むカラスであり、
現在も山間部など森林地帯に広く分布しているが、
近年日本では都市部において急速に分布を拡げた。

食性は雑食で、
昆虫や木の実、動物の死骸など、あらゆるものを食べる。

特に脂質を好み、石鹸や和蝋燭を食べることもある。

また、
小鳥やネズミなどの生きた小動物を捕食することもある。

主に電柱や高木上など
高所から地上を見下ろして餌を探し、
餌を見つけると下りて行ってとり、高所に戻って食べる。

鋭い嘴は、つつくだけでなく咬む力にも優れており、
肉なども引きちぎって食べることができる。

生態が類似するハシボソガラスよりも肉食性が強い。

産卵期は4月頃で、
主に樹林内の大木に木の枝などを用いた巣を作り、
2~5卵を産む。

抱卵日数は約20日で、メスのみが抱卵する。

雛への給餌は雌雄で行い、
雛は孵化してから約1か月で巣立つ。

その後約1か月は家族群で行動し、独立する。

若鳥は約3年間群れで行動し、
その後ペアで縄張りを構える。

夜間人が立ち入る事の無いよく茂った森に
集団ねぐらをとる習性があり、
冬期には特に多数が集まる。

鳴き声は「カー、カー」と澄んでおり、
ここでもハシボソガラス(少々濁る)と判別できる。

頭のいいカラスは、
雪を水の代わりに浴びる「雪浴び」や、
アリを羽毛になすりつけたり、
巣の上に伏せてアリにたからせる
「蟻浴(アリの持つ蟻酸によって、
ハジラミを退治している)」、
銭湯の煙を浴びる「煙浴」など、
いろいろな入浴方法を実践している。

寿命は飼育下では約20年、
野生下では約10年とされる。

前述のように元来は森林などに住む鳥であったが、
近年都市化が進んだ日本では
都市部においても分布を拡げており、
「都会の鳥」としてのイメージが定着した。

何でも食糧にしうるハシブトガラスにとって
都市部は食糧が豊かであったこと、
止まり木代わりになる構造物が入り組んでいること、
また天敵となる猛禽類が住めなくなった事
などが相まって、その数は激増し、
早朝に群れで生ゴミを漁る光景や、
洗濯物を干す針金製ハンガーを集めて営巣する様子などが各地で観察されるようになった。

近年都会で急激に数を増やしたのには、
自治体により黒色のゴミ袋に代わり
透明・半透明のゴミ袋の使用が義務づけられたため、
視覚により餌を探すカラスにとって
ゴミを漁りやすくなった事が
原因の一つとして指摘されている。

その対策として、
ゴミ置き場にネット等を用いて
カラスがゴミを漁れないようにする、
夜間のゴミ収集を行いカラスの行動する時間にゴミを残さないなどの方法がとられた。

自転車屋の生き物歳時記  ハシブトガラス

2019/03/10

阪急電鉄(箕面有馬電気軌道)開業

3月10日
日曜日

阪急電鉄(箕面有馬電気軌道)開業

1910年 (明治43年)3月10日

箕面有馬電気軌道(現在の阪急電鉄)の初の開業区間、
梅田駅 - 宝塚駅間と
石橋駅 - 箕面駅間が開業。

当時の沿線は、
阪神や京浜、京阪のように大都市間を結ぶ路線でもなく、さらには沿線が田園地帯であったことから、
採算が取れないのではないかという懸念が
周辺では強かった。

その様は「ミミズ電車」と揶揄されるほどであった。

いざ開業してみれば営業成績の方は良好で、
開業間もない頃の収入は当初予定の2倍になったという。

だが一方で、
開業から8日間の間には
早くも列車衝突事故を2件起こし、
3名が死亡するという事態にも至っており、
大阪毎日新聞にも書き立てられた。

そんな中、
同社の専務(社長不在のため、実質的には代表者)
となった小林一三は、
路線の敷設に先立って周辺の土地を買収し、
その開発を行って増収につなげるという施策をとった。

まず路線の開業した1910年、
池田で当時珍しかった
月賦方式による住宅分譲を開始した。

同年11月には
箕面に日本最大級の広さを誇る箕面動物園、
1911年5月には
宝塚に新温泉を開いた。

1913年には
現在の宝塚歌劇団の前身となる、
宝塚唱歌隊も創設した。

これらの施策は予想通り収益の増加をもたらし、
他の私鉄による沿線開発の範ともなった。

小林はこれに関して、
「乗客は電車が創造する」という言葉を残している。

阪急電鉄(箕面有馬電気軌道)開業