2019/03/21
高松塚古墳
3月21日
木曜日
春分の日
お彼岸の中日
高松塚古墳
1972年(昭和47年)3月21日
高松塚古墳で壁画が発見される。
高松塚古墳(たかまつづかこふん)は、
奈良県高市郡明日香村
(国営飛鳥歴史公園内)に存在する古墳。
藤原京期(694年~710年)に築造された終末期古墳で、
直径23m(下段)及び18m(上段)、
高さ5mの二段式の円墳である。
1972年に極彩色の壁画が発見されたことで
一躍注目されるようになった。
2019/03/20
ペイペイ導入
3月20日
水曜日
ペイペイ導入
兵庫県二輪車軽自動車協同組合より
キャッシュレスサービス
ペイペイの導入を推進するように
との通達もありましたので
ペイペイが使えるようにさせて頂きました。
宜しくお願い致します❗
2019/03/20
一ノ谷の戦い
3月20日
水曜日
一ノ谷の戦い
1184年3月20日
(元暦元年2月7日)
源義経らが
「鵯越(ひよどりごえ)の奇襲」により平氏に圧勝。
2月7日払暁、
先駆けせんと欲して義経の部隊から抜け出した
熊谷直実・直家父子と平山季重らの5騎が
忠度の守る塩屋口の西城戸に現れて
名乗りを上げて合戦は始まった。
平氏は最初は少数と侮って相手にしなかったが、
やがて討ち取らんと兵を繰り出して直実らを取り囲む。
直実らは奮戦するが、
多勢に無勢で討ち取られかけた時に
土肥実平率いる7000余騎が駆けつけて激戦となった。
午前6時、
知盛、重衡ら平氏軍主力の守る
東側の生田口の陣の前には
範頼率いる梶原景時、畠山重忠以下の大手軍5万騎が布陣。
範頼軍は激しく矢を射かけるが、
平氏は壕をめぐらし、逆茂木を重ねて
陣を固めて待ちかまえていた。
平氏軍も雨のように矢を射かけて応じ
源氏軍をひるませる。
平氏軍は2000騎を繰り出して、白兵戦を展開。
範頼軍は河原高直、藤田行安らが討たれて、
死傷者が続出して攻めあぐねた。
そこへ梶原景時・景季父子が逆茂木を取り除き、
ふりそそぐ矢の中を突進して
「梶原の二度懸け」と呼ばれる奮戦を見せた。
義経と分かれた
安田義定、多田行綱らも夢野口(山の手)を攻撃する。
生田口、塩屋口、夢野口で激戦が繰り広げられるが、
平氏は激しく抵抗して、
源氏軍は容易には突破できなかった。
精兵70騎を率いて、
一ノ谷の裏手の断崖絶壁の上に立った義経は
戦機と見て坂を駆け下る決断をする。
崖を駆け下った義経らは平氏の陣に突入する。
予想もしなかった方向から攻撃を受けた
一ノ谷の陣営は大混乱となり、
義経はそれに乗じて方々に火をかけた。
平氏の兵たちは我先にと海へ逃げ出した。
混乱が波及して
平忠度の守る塩屋口の西城戸も突破される。
逃げ惑う平氏の兵たちが船に殺到して、
溺死者が続出した。
生田口の東城戸では
副将の重衡が8000騎を率いて
安田義定、多田行綱らに攻められ危機に陥っている
夢野口(山の手)の救援に向かった。
午前11時頃、
一ノ谷から煙が上がるのを見た範頼は
大手軍に総攻撃を命じた。
知盛は必死に防戦するが兵が浮き足立って、
遂に敗走を始めた。
安徳天皇、建礼門院らと沖合いの船にいた
総大将の宗盛は敗北を悟って屋島へ向かった。
西城戸の将の忠度は
逃れようとしていたところを
岡部忠澄に組まれて負傷し、
覚悟して端座して念仏をとなえ首を刎ねられた。
歌人だった忠度が
箙に和歌を残していた逸話が残っている。
合戦の一番乗りの功名を果たした
熊谷直実は敵を探していると、
馬に乗って海に入り、沖の船へ逃れようとする
平氏の武者を見つけて
「敵に背を向けるのは卑怯であろう。戻りなされ」
と呼びかけた。
武者はこれに応じて、
陸へ引きかえして直実と組むが、
勇士の直実にはとても敵わず、組み伏せられた。
直実は首を取ろうとするが、
武者の顔を見ると薄化粧をした
美しい顔立ちの少年だった。
武者は清盛の弟経盛の子敦盛16歳と名乗った。
直実の息子直家も同じ16歳で、
憐れに思い逃そうとするが、
他の源氏の武者が迫っており、
とうてい逃れることはできまいと
泣く泣く敦盛を討ち取った。
敗走した平重衡は、
梶原景季と庄氏によって捕らえられた。
この敗走で平氏一門の多くが討たれ、
平氏は屋島へ逃れて、
戦いは鎌倉方の勝利に終わった。