2019/07/05
クマゼミの初鳴き
7月5日
金曜日
クマゼミの初鳴き
本日
近隣でクマゼミの初鳴きを聴きました❗
個人的に
セミが鳴いたら
梅雨明けと考えているので
我が街は
本日をもって梅雨明け❗
2019/07/05
ゼロ戦の日
7月5日
金曜日
ゼロ戦の日
1939年(昭和14年)7月6日
零式艦上戦闘機(ゼロ戦)の
試作機の試験飛行が始まったことを記念。
零式艦上戦闘機は、
零戦(ぜろせん、れいせん)、
ゼロ戦の略称で知られている。
連合国側の米英の戦闘機に対し
優勢に戦ったことから敵パイロットから
「ゼロファイター(Zero Fighter)」と呼ばれた。
「小回りが利き、飛行距離の長い戦闘機を」という
海軍の要求で堀越二郎が設計した。
零戦は日本最後の艦上戦闘機であり、
時速533km、航続距離3,500kmであった。
1年後の中国戦線から実戦に投入され、
第二次大戦中に1万機以上が生産された。
当時の日本の軍用機は、
採用年次の皇紀下2桁を名称に冠する規定になっていた。
零戦の「零式」との名称は、
制式採用された1940年(昭和15年)は
皇紀2600年にあたり、
その下2桁が「00」であるためである。
2019/07/04
湊川の戦い
7月4日
木曜日
湊川の戦い
1336年7月4日
(建武3年5月25日)
湊川の戦いが行われる。
湊川の戦い(みなとがわのたたかい)は、
南北朝時代の延元元年/建武3年5月25日
(1336年7月4日)に、
摂津国湊川(現・兵庫県神戸市中央区・兵庫区)で、
九州から東上して来た
足利尊氏・足利直義兄弟らの軍と、
これを迎え撃った後醍醐天皇方の
新田義貞・楠木正成の軍との間で行われた合戦である。
25日の辰刻(午前8時頃)、
海から足利尊氏の率いる軍が湊川に到達し、
新田・楠木連合軍と対峙した。
他方、
陸からも足利直義を司令官とする
陸上軍主力の大軍が西国街道を進行し、
接近しつつあった。
海からの大船団を『太平記』は
「呉と魏が天下を争った赤壁の戦いを凌ぐ」
とさえ述べているが、
義貞も正成も足利方の大軍に対して
少しもひるむことはなかったという。
水軍を用意できなかった新田軍は、
脇屋義助を将に一族23人、総勢5千余騎を経島に、
大館氏明を将に一族16人、総勢3千人を
灯炉堂の南の浜にそれぞれ布陣させ、
陸地からの敵に備えさせた。
義貞自身は総大将であり、
諸将への軍令を出すため、
和田岬に2万5千の兵で布陣した。
一方、楠木軍は他家の軍勢を入れず、
700余騎で湊川西の宿
(湊川の西側、本陣の北西にあたる会下山)に布陣し、
陸地から攻めてくる敵に備えていた。
この義貞の陣立ては、
「不思議な陣立て」であったと言われる。
義貞は南から上陸してくる
足利軍の軍船に背中を向けるばかりか、
北に陣取った楠木正成と脇屋義助が撃破されてしまうと、東西南の三方向が
海に面している和田岬が
足利軍に完全に包囲され
退路をふさがれてしまう形になる。
義貞はあえて「背水の陣」を強いて、
配下に決死の覚悟で
合戦に挑むよう促したと推測される。