2019/06/21
週末立ち飲み
6月21日
金曜日
週末立ち飲み
大根とキュウリの浅漬け
さっぱりしてええですな❗
2019/06/21
本能寺の変
6月21日
金曜日
本能寺の変
1582年6月21日
(天正10年6月2日)
明智光秀が
京都の本能寺に滞在中の織田信長を襲撃し、
織田は自害。
信長は寝込みを襲われ、
包囲されたのを悟ると、寺に火を放ち自害して果てた。
信長の嫡男で織田家当主信忠は、
宿泊していた妙覚寺から二条御新造に退いて戦ったが、
やはり館に火を放って自刃した。
2人の非業の死によって織田政権は崩壊し、
天下人となった光秀であったが、
中国大返しで畿内に戻った羽柴秀吉に
山崎の戦いで敗れて、
僅か13日後に光秀もまた同様の運命を辿った。
この事件は戦国乱世が終息に向う契機となったので、
戦国時代における最後の下剋上とも言われる。
光秀が謀反を起こした理由については、
史学的には重要な研究テーマと見られておらず、
定説が存在していない。
一方で
「日本史の謎」「永遠のミステリー」などと呼ばれ、
専門の中世史研究家ではない多くの人々が
多種多様な説を発表している。
本能寺の変の解釈では
早朝に寝込みを襲ったとの事になっていますが
明智光秀が福知山を立ったのが
夕方だったので深夜には
本能寺に到着している計算になるらしく
そもそもは
光秀は信長と
話し合いの為に
本能寺に行ったのではないかとも言われています。
秀吉陰謀説
家康陰謀説
足利義昭陰謀説
朝廷陰謀説
イエズス会陰謀説
光秀家康密約説
様々な陰謀説が推測される
日本史上最大のミステリーですね❗
2019/06/20
新田義貞の挙兵
6月20日
木曜日
新田義貞の挙兵
1333年6月20日
(元弘3年/正慶2年5月8日)
新田義貞が上野国で北条氏討伐の旗揚げ。
河内源氏義国流新田氏本宗家の8代目棟梁。
父は新田朝氏、母は不詳。
官位は正四位下、左近衛中将。
明治15年(1882年)8月7日贈正一位。
鎌倉末期から南北朝の混乱の時代にあって、
足利氏と並び武家を統率する力のある家系であった
新田家の当主で、足利尊氏の対抗馬であり、
好敵手でもあった。
ただし、
鎌倉時代後期の新田家は
足利家に対して従属関係にあり、
延元の乱以前の義貞は尊氏の指揮下の
一部将であったとする研究もある。
また、
軍記物語『太平記』においては、
前半の主人公の一人とも言える存在である。
鎌倉幕府を攻撃して事実上滅亡に追い込み、
後醍醐天皇による
建武新政樹立の立役者の一人となった。
しかし、建武新政樹立後、
同じく倒幕の貢献者の一人である足利尊氏と対立し、
尊氏が建武政権に反旗を翻すと、
後醍醐天皇により事実上の
官軍総大将に任命されてこれに対抗した。
これにより各地で転戦したものの、
箱根や湊川での合戦で敗北し、
のちに後醍醐天皇の息子の
恒良親王、尊良親王を奉じて北陸に赴き、
越前国を拠点として活動するが、
最期は越前藤島で戦死した。
東国の一御家人から始まり、
鎌倉幕府を滅ぼして中央へと進出し、
その功績から来る重圧に耐えながらも
南朝の総大将として忠節を尽くし続けた生涯だった。
死後、
江戸時代に義貞が着用していた兜が偶然見つかり、
福井藩主松平光通は
兜が発見された場所に新田塚を建てた。
明治時代、福井知藩事・松平茂昭は
新田義貞のために新田塚に祠を建て、
のち義貞を主祭神する藤島神社となり、
建武中興十五社の一つに列せられた。