2019/06/29
長篠の戦い
6月29日
土曜日
長篠の戦い
1575年6月29日
(天正3年5月21日)
長篠の戦い(ながしののたたかい、
長篠の合戦・長篠合戦とも言う)は、
戦国時代の天正3年5月21日
(1575年6月29日)、
三河国長篠城(現愛知県新城市長篠)をめぐり、
3万8千の織田信長・徳川家康連合軍と、
1万5千の武田勝頼の軍勢が戦った合戦である。
決戦地が設楽原(設楽ヶ原、したらがはら)
および有海原(あるみ原)
(『藩翰譜』、『信長公記』)だったため、
長篠設楽原(設楽ヶ原)の戦い
(ながしの したらがはら の たたかい)と記す場合もある。
5月21日早朝、
鳶ヶ巣山攻防戦の大勢が決した
と思われる頃の設楽原では、
武田軍が織田・徳川軍を攻撃。
戦いは昼過ぎまで続いた(約8時間)が、
織田・徳川軍から追撃された武田軍は
10,000名以上の犠牲(鳶ヶ巣山攻防戦も含む)を出した。
織田・徳川軍の勝利で合戦は終結した。
織田・徳川軍には
主だった武将に戦死者が見られないのに対し、
『信長公記』に記載される武田軍の戦死者は、
譜代家老の内藤、山県、馬場を始めとして、
原昌胤、原盛胤、真田信綱、真田昌輝、
土屋昌続、土屋直規、安中景繁、望月信永、
米倉丹後守など重臣や指揮官にも及び、
被害は甚大であった。
勝頼はわずか数百人の旗本に守られながら、
一時は菅沼定忠に助けられ武節城に篭ったが、
信濃の高遠城に後退した。
上杉の抑え部隊10,000を率いていた
海津城代春日虎綱(高坂昌信)は、
上杉謙信と和睦した後に、勝頼を出迎えて、
これと合流して帰国したという。
長篠の戦いの特筆すべき点として
織田家は当時としては異例の
鉄砲3,000丁を用意して兵に配布し、
新戦法三段撃ちを行ったとされるのが有名である。
通説では、
当時最新兵器であった鉄砲を3,000丁も用意、
さらに新戦法の三段撃ちを実行した織田軍を前に、
当時最強と呼ばれた武田の騎馬隊は
為す術もなく殲滅させられたとされるが、
そもそも兵力に2倍以上の差があったうえ、
経過・勝因については様々な論点において
異論が存在する。