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2019/05/15

聖徳太子

令和元年
5月15日
水曜日

聖徳太子

593年5月15日
(推古天皇元年4月10日)

聖徳太子が推古天皇の摂政に就任。

推古天皇のもと、
蘇我馬子と協調して政治を行い、
国際的緊張のなかで遣隋使を派遣するなど
進んでいる中国の文化・制度を学び
冠位十二階や十七条憲法を定めるなど
大王(天皇)や王族を中心とした
中央集権国家体制の確立を図った他、
仏教を取り入れ神道とともに
厚く信仰し興隆につとめたとされる。

聖徳太子という名称は
死没129年後天平勝宝3年(751年)に編纂された
『懐風藻』が初出と言われる。

そして、
平安時代に成立した史書である
『日本三代実録』『大鏡』『東大寺要録』『水鏡』等は
いずれも「聖徳太子」と記載し、
「厩戸」「豐聰耳」などの表記は見えないため、
遅くともこの時期には「聖徳太子」の名が
一般的な名称となっていたことが伺える。

713年-717年頃の成立とされる
『播磨国風土記』印南郡大國里条にある
生石神社の「石の宝殿」についての記述に、

「池之原 原南有作石 形如屋
長二丈 廣一丈五尺 高亦如之 名號曰 大石 傳云 聖徳王御世 厩戸 弓削大連 守屋 所造之石也」
(原の南に作石あり。形、屋の如し。

長さ二丈(つえ)、廣さ一丈五尺(さか、尺または咫)、高さもかくの如し。

名號を大石といふ。

傳へていへらく、聖徳の王の御世、
弓削の大連の造れる石なり)とあり、
「弓削の大連」は物部守屋、
「聖徳の王(聖徳王)」は厩戸皇子と解釈する説もある。

また、
大宝令の注釈書『古記』(天平10年、738年頃)には
上宮太子の諡号を聖徳王としたとある。

聖徳太子

2019/05/14

紀尾井坂の変

令和元年
5月14日
火曜日

紀尾井坂の変

1878年(明治11年)5月14日

内務卿
大久保利通が暗殺される。
(紀尾井坂の変)

紀尾井坂の変(きおいざかのへん)は、
1878年(明治11年)5月14日に、
内務卿大久保利通が
東京府麹町区麹町紀尾井町清水谷
(現在の東京都千代田区紀尾井町清水谷)で
不平士族6名によって暗殺された事件である。

「紀尾井坂事件」
「大久保利通暗殺事件」ともいう。

紀尾井坂の変

2019/05/13

メイストームデー

令和元年
5月13日
月曜日

メイストームデー(5月の嵐の日)

バレンタインデーから88日目、
「八十八夜の別れ霜」という言葉にちなみ、
別れ話を切り出すのに最適とされる日。

別れ話を切り出すのに最適って、
これは嫌な日やな😅

メイストームデー