2019/08/12
航空安全の日・茜雲忌
8月12日
月曜日
振替休日
航空安全の日・茜雲忌
1985年(昭和60年)8月12日
520人の犠牲者を出した
日本航空123便墜落事故にちなむ。
遺族らがつくる「8・12連絡会」が
編集したメッセージ集のタイトルから
「茜雲忌」とも呼ばれる。
あの悲惨な大事故から
もう34年も経つんですね。
航空関係者は
あの時の教訓を決して忘れないように
あの事故を決して風化させないように
安全第一に日夜取り組んで頂きたいです。
2019/08/12
お墓参り
8月12日
月曜日
振替休日
お墓参り
明日でも
一人でお墓参りに行こうかと思っていたが
弟がやって来たので
母と三人でお墓参りに行きました。
2019/08/11
兵庫城跡
8月11日
日曜日
山の日
兵庫城跡
現在の
神戸市兵庫区の
イオンモール神戸南と新川運河一帯には
かつて
織田信長の重臣
池田恒興が築いた
兵庫城と言うお城がありました。
兵庫城(ひょうごじょう)は、
兵庫県神戸市兵庫区中之島
(摂津国兵庫津)周辺にあった日本の城である。
尼崎藩時代には
兵庫陣屋と呼ばれ奉行が置かれ
明治時代には兵庫県庁があった。
神戸港の西に兵庫港という港がある。
兵庫港は
江戸時代まで良港として栄えた兵庫津の跡で、
また平清盛が遷都とした福原京がある。
南北朝時代には戦いの中心となり、
また北側には山陽道が通り、
海陸の集散地でもあり交通の要衝でもあった。
兵庫城が
城として機能していたのは短い期間で、
明治時代以降には兵庫港の大規模な改修や、
近代以降の都市化により遺構は失われてしまった。
天正6年(1578年)11月
有岡城の戦いで
荒木村重が突然織田信長に謀反をおこした。
その有岡城も落城し荒木村重は花隈城へ逃走し、
そこで花隈城の戦いが行われたが、
織田信長軍の武将で池田恒興(信輝)・輝政父子により
花隈城も落城した。
その功により、
織田信長より兵庫の地を与えられた。
摂津国の大守になった池田恒興は、
1581年(天正9年)
花隈城には入城せず兵庫津に城を築いた。
その時の様子は、
「池田信輝此津守領の時、花隈城を毀り、
其材石を移してここに築く」
(『摂津名所図会』)とある。
しかし
1583年(天正11年)
池田恒興わずか2年で美濃国大垣城に移封され、
兵庫城下は豊臣秀吉の直轄地となり
片桐且元が代官として入城した。
呼称も
兵庫城から片桐陣屋と称されていた。
1607年(慶長12年)に
朝鮮使節がここに招かれており、
その日記の中には、
「及館主所周以城池門設三重(略)
支供官乃秀頼代官片桐主膳」とある事から
館の周りには堀があり、
三重の門があったことが伺い知れる記載となっている。
江戸時代まで
朝鮮使節は合計12回実施されるが、
その内11回は兵庫津に寄港している。
尼崎藩は朝鮮使節の接待役を命じられ、
約2年前から準備が始められ、
港の整備や宿泊先の手配をしていた。
1615年(元和元年)
大坂城落城後は
尼崎兵庫津一帯は尼崎藩に組み込まれ
兵庫城址には陣屋(兵庫津奉行所)が置かれた。
1769年(明和6年)、
上知令により兵庫津一帯は天領となり、
兵庫城址の陣屋が勤番所に改築された。
明治時代には
勤番所が初代の兵庫県庁となり、
伊藤博文が初代知事として赴任した。
1873年(明治6年)まで
外郭となっていた土塁が残っていたが
市街地発展のため取り除かれ、
翌1874年(明治7年)に
兵庫港が大幅に改修され、
兵庫新川運河が作られたため
兵庫城跡は破壊されてしまった。