2019/08/06
広島平和記念日
8月6日
火曜日
広島原爆忌
広島平和記念日
原爆死没者慰霊式
1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分に、
米軍のB-29爆撃機「エノラ・ゲイ」により、
原子爆弾「リトルボーイ」が広島に投下された。
これにより、
一瞬のうちに14万人が死亡し、市街は壊滅した。
この歴史的悲劇から目をそむけないために、
犠牲者の霊を慰め、
世界平和を祈るために、
この日
広島市では原爆慰霊祭が行われる。
2019/08/06
上月城の戦い
8月6日
火曜日
上月城の戦い
1578年8月6日(天正6年7月3日)
尼子勝久らが自刃し尼子氏が滅亡。
三木城の別所長治の離反、
及び毛利本軍の出陣を受け、
羽柴秀吉は直ちに織田信長へ援軍を要請。
まず播州に近い摂津の荒木村重の軍が合流するが、
毛利軍がどこに現れるかは不明なままであった。
この間に秀吉はしきりに毛利軍の動向を探る傍ら、
三木城の攻略を開始し支城の野口城を陥落させている。
一方の毛利軍は
輝元軍が戦線から遠い備中高松城に本陣を置き、
吉川元春・小早川隆景ら主力が上月城へ進軍。
4月18日に包囲を開始する(第二次上月城の戦い)。
上月城を守るのは
尼子勝久を総大将とする山中幸盛・尼子氏久・尼子通久・神西元通らの手勢2300〜3000にすぎなかった。
毛利軍が上月城に向かったとの報を受けた羽柴秀吉は、
三木城の攻撃を継続させつつ、
自らの手勢を率いて尼子軍支援のために
高倉山に進出した。
対して、
圧倒的大軍で上月城を包囲した毛利軍だが、
積極的に攻撃に出ようとはせず、
陣城を構築し、深い空堀や塹壕を掘り、
塀を巡らして柵や逆茂木で防備を固めるという
徹底ぶりで、完璧なまでの防御線を敷く。
さらに連日法螺貝や太鼓を鳴らし威嚇行動を行い、
兵糧攻めで城兵の戦意を喪失させる方針を取った。
織田軍にはさらに
織田信忠を総大将として滝川一益、佐久間信盛、
明智光秀、丹羽長秀、細川藤孝
といった顔ぶれの援軍が到着したが、
信長の意図は三木城の攻略と毛利軍の足止めであり、
神吉城・志方城・高砂城といった
三木城の支城攻略に力を注いだ。
このため秀吉も上月城に手を出すことはできず、
後詰めの見込みがない尼子軍は
絶望的な状況に立たされる。
これを見かねた秀吉は
6月16日に京都へ向かい織田信長に指示を仰いだ。
しかしあくまで
播州平定を優先する信長の方針は変わらず、
上月城の尼子軍は事実上の捨て駒として扱われた。
やむを得ず
高倉山の陣を引き払うことになった秀吉は
尼子軍に上月城の放棄・脱出を促す書状を出したが、
尼子主従はこれを黙殺し、徹底抗戦を選んだとされる。
6月25日、
滝川一益・丹羽長秀・明智光秀が
毛利軍に備えるため三日月山に布陣。
羽柴軍・荒木軍は高倉山から書写山へ陣を移す。
その際に熊見川(現佐用川)で毛利軍の追撃を受け、
羽柴軍は大きな打撃を受けた。
この戦いに参加していた
毛利軍の武将・玉木吉保著作の『身自鏡』には
退却した羽柴軍の陣前に
「夏山に立てる羽柴の陣なれば、
秋(安芸)風吹けば散り失せにけり」という歌が
毛利軍兵士の手によって残されていたと記録されている。 (熊見川の戦い)
7月1日、
尼子軍は城兵の助命を条件に開城・降伏し、
7月3日に
尼子勝久・尼子氏久・尼子通久、
そして勝久の嫡男である尼子豊若丸らが自刃した。
尼子再興軍の中心的人物であった
山中幸盛も捕虜となり、
後に備後国鞆に送られる途上、備中国成羽で殺害された。
こうして
70日に及んだ上月城攻防戦は幕を閉じ、
武門としての尼子氏は完全に滅亡した。
なお、
生存した尼子再興軍の残党勢力は、
尼子氏庶流亀井氏の亀井茲矩に率いられる形となり、
本能寺の変後も秀吉麾下にて
鳥取城攻略・朝鮮出兵参陣と転戦を重ね、
因幡国鹿野・転封を経て
石見国津和野を拝領、
津和野藩(四万三千石)として幕末まで続いた。
2019/08/05
タクシーの日
8月5日
月曜日
タクシーの日
1912年(明治45年)8月5日
日本最初のタクシー会社が
営業を開始する予定日としたことに由来。
実際は、
明治天皇崩御や
タクシー・メーターの取り付けの遅れにより
8月15日に正式営業開始となった。
これを記念して、
東京乗用旅客自動車協会(東旅協)が
1984年(昭和59年)に制定し、
翌1985年(昭和60年)から実施。
以後、
全国乗用自動車連合会(全乗連)が
全国キャンペーンを実施中。