2019/09/22
ラーメンまこと屋 牛醤ラーメン
9月22日
日曜日
ラーメンまこと屋
長田南店
牛醤ラーメン
麺固め
煮玉子トッピング
半チャーハン
2019/09/22
有岡城の戦い
9月22日
日曜日
有岡城の戦い
1579年9月22日
(天正7年9月2日)
荒木村重が配下を残し、有岡城を脱出。
有岡城の戦い(ありおかじょうのたたかい)は、
天正6年(1578年)7月から
翌天正7年(1579年)10月19日にかけて
行われた籠城戦。
織田信長に帰属していた
荒木村重が突然謀反を起こしたことに端を発する。
「伊丹城の戦い」とも呼ばれている。
村重の織田信長に対する謀反の理由は、
諸説があって今でも定かではない。
ただ、信長は村重を重用していたため、
その反逆に驚愕し、翻意を促したと言われている
(信長公記、フロイス日本史など)。
村重は足利義昭や石山本願寺とも親しかったため、
両者の要請を受けて信長に反逆した。
村重が支配していた摂津は
当時、中国方面に進出していた羽柴秀吉と
播磨、丹波方面に進出していた明智光秀らにとって
重要な地点であり、
村重が反逆した場合、両者は孤立することになるため、
前掲2者の意向を受けての
謀反だったのではないかという説。
(幕府奉公衆の小林家孝が
有岡城に入城して連絡係を務めていた)
村重の家臣(中川清秀という)が
密かに石山本願寺に兵糧を横流ししていたため、
それが信長に発覚した場合の
処罰を恐れての謀反であったという説。
信長の側近・長谷川秀一の
傲慢に耐えかねたという説(『当代記』)。
同書では
秀一が村重に対して小便をひっかけたとしている。
これは竹中重治と同じ逸話であり信頼性は乏しいが、
信長の側近衆と何らかの対立があったとみる説がある。
天正元年(1573年)、
村重は信長を近江国の瀬田で出迎えたが、
この時に信長が刀の先に突き刺して差し出した餅を
くわえさせられるという
恥辱を味わさせられたという怨恨説。
黒田孝高(当時は小寺孝隆)と相談の謀略説。
信長暗殺のため(後に成功した本能寺のように)
手勢が手薄なところへ誘き出し
夜襲する計画であったという。
そのため
信長の遺産を継いで天下人となった
豊臣秀吉・徳川家康などからは
厚遇されることになったとされる説。
実際、
信長は孝高を村重方に寝返ったと決めつけ、
人質としていた孝高の子・松寿丸(のちの黒田長政)の
処刑を秀吉に命じている。
将来に希望が持てなくなったからという説。
石山合戦では先鋒を務め、
播磨国衆との繋がりもあったが、
本願寺攻めの指揮官が佐久間信盛になり、
播磨方面軍も羽柴秀吉が司令官に就任したことから
活躍の場がなくなったからといわれる。
摂津国内では
信長勢力の進出まで国衆や寺内町・郷村などが
比較的独自の支配体制を築いてきたが、
信長はこうした勢力を統制下に置こうとしたために
織田政権への反発が強まり、
その矛先が村重に向けられつつあった。
村重は
国衆や百姓からの突き上げに追い込まれた結果、
却って信長に叛旗を翻して
彼らの支持を受けた方が摂津支配を保てると
判断したとする説。
実際、
村重の反逆の直後に
これまで石山本願寺の目の前にありながら
石山合戦に中立的であった
摂津西部の一向一揆が蜂起し、
尼崎城や花隈城の戦いでは
むしろ彼ら百姓主導による抵抗が行われて、
信長軍も西宮から須磨の村々を焼き討ちにして
兵庫津では
僧俗男女の区別なく皆殺しにしたと伝えられている。
2019/09/21
ファッションショーの日
9月21日
土曜日
ファッションショーの日
ファッションショー・メモリアル・デー
1927年(昭和2年)9月21日
日本で初めてのファッションショーが
銀座の三越呉服店で行われたことに由来。
水谷八重子 (初代)ら
3人の女優がモデルとなり、
一般から図案を募集した着物を披露した。
画像は
初代モデルの水谷八重子(初代)さん