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2019/10/08

寒露(かんろ)

10月8日
火曜日

寒露(かんろ)

二十四節気の一つ。

期間としての意味もあり、
この日から、
次の節気の霜降前日までである。

露が冷気によって凍りそうになるころ。

雁などの冬鳥が渡ってきて、
菊が咲き始め、
蟋蟀(こおろぎ)などが鳴き始めるころ。

『暦便覧』では、
「陰寒の気に合つて露結び凝らんとすれば也」
と説明している。

やっと過ごしやすくなって来たかな
ぐらいの感じなので
寒露と言うほどではないですな😅

寒露(かんろ)

2019/10/07

自転車屋の生き物歳時記 オンブバッタ

10月7日
月曜日

自転車屋の生き物歳時記

オンブバッタ

先週
お店の中に
オンブバッタが飛び込んで来た。
どこかにいなくなったなと思っていたら
夜には
二階の部屋の壁に張り付いていた😅

オンブバッタ
(負飛蝗)Atractomorpha lata は、
バッタ目(直翅目)・オンブバッタ科に
分類されるバッタの一種。

和名通り、
メスの上にオスが乗っている姿が知られる。

成虫の体長は
オス25mm、メス42mm前後で、
バッタとしては小型の部類に入る。

メスの方が大きく、体つきもずんぐりしている。

頭部は
ショウリョウバッタのように前方に尖り、
先端付近に触角と複眼が並んでつく。

体の断面は三角形に近く、
複眼・前胸部・後脚腿節にかけての
白い線で背面と腹面が分かれる。

成虫の翅は前後とも先端が尖る。

また、
前翅の陰に隠れた後翅は透明だが、
基部が黄色みを帯びる。

翅は長いが飛ぶことはなく、
後脚での跳躍や歩行によって移動する。

飛翔可能な長翅型が現れることもあり、
灯火に良く集まっている。

体色は
緑色と淡褐色の二通りがあるが、
淡褐色系ではたまにピンク色に近い個体も見かけられる。

体表は側面の白線以外ほぼ同一色で、
特に目立つ模様はない。

日本全土・朝鮮半島・中国・台湾まで、
離島を含む東アジアに広く分布する。

九州以北では、
翅がない幼虫が5月頃から出現し、
成虫へは8月~11月頃に成長する。

バッタ類の多くは
日当たりのよい草原に生息し、
イネ科やカヤツリグサ科の植物を食べるが、
オンブバッタは
クズ、カナムグラ、カラムシなど
葉の広い植物を食べる。

このため
草原に加えてこれらの植物が多い
半日陰の林縁も生息域となり、
同様の食性をもつツチイナゴと
同所的に見られることも多い。

また他のバッタ類が全くいないような都市部でも、
緑地帯、空き地、庭園、花壇、家庭菜園などに生息する。

このような環境では
花卉や野菜の葉を食べて害を与えることもある。

園芸植物では
特にキク科、シソ科、ヒユ科、タデ科、
ナス科、ヒルガオ科が良く狙われる。

何故かマメ科植物の優先度は下がる
(全く食べなくなるわけではない)。

オンブバッタの成虫では、
メスの背中にオスが乗る姿がよく観察される。

この状態は
バッタ類の交尾の際に観察されるが、
他のバッタ類が速やかに離れるのに対し、
オンブバッタは交尾時以外でも
オスがメスの背中に乗り続けるため、
「おんぶ」状態がよく観察される。

単独行動中のオスがメスを奪おうとして
おんぶしているオスと喧嘩になることもある。

自転車屋の生き物歳時記  オンブバッタ

2019/10/07

第一次天正伊賀の乱

10月7日
月曜日

第一次天正伊賀の乱

1579年10月7日
(天正6年9月19日)

織田信雄が伊賀国に侵攻するも、
伊賀国人衆に敗退。
(第一次天正伊賀の乱)

北畠家の養子となっていた
織田信長の次男織田信雄は、
天正4年(1576年)に
北畠具教ら北畠一族を三瀬の変で暗殺し
伊勢国を掌握すると、
次は伊賀国の領国化を狙っていた。

1578年(天正6年)2月
伊賀国の郷士の
日奈知城主・下山平兵衛(下山甲斐守)が信雄を訪れ、
伊賀国への手引きを申し出た。

信雄は同年3月に
滝川雄利に北畠具教が隠居城として築城した
丸山城の修築を命じた。

これを知った伊賀国郷士衆は驚き、
丸山城の西にある天童山に密偵を送り、
築城の様子をうかがった。

丸山城は3層の天守や天守台は石垣で固められ、
また二の丸への登城道は9回折れているなど、
規模壮大な城であったと記されている。

すぐさま
伊賀郷士11名が平楽寺に集まり、
「完成までに攻撃すべし」と集議一決した。

丸山城周辺の
神戸、上林、比土、才良、郡村、沖、
市部、猪田、依那具、四十九、比自岐衆が集結し、
同年10月25日に集結した
忍者たちが総攻撃を開始した。

不意を突かれた滝川雄利軍や人夫衆は混乱し、
昼過ぎには残存兵力を糾合し伊勢国に敗走した。

『伊乱記』には、
「伊賀衆は雄利を討ち取ったと喜んだ。
しかし雄利が無事であることを知って落胆した」とある。

翌天正7年(1579年)9月16日
信雄は信長に相談もせず
独断で8000の兵を率いて
伊賀国に3方から侵攻したが、
伊賀郷士衆は各地で抗戦し信雄軍を伊勢国に敗走させた。

伊賀衆の
夜襲や松明を用いた撹乱作戦や
地形を活かした奇襲などで、
2~3日で信雄軍は多くの兵を失い 、伊勢へ敗走した。

信雄軍は
重臣の柘植保重を討たれる(鬼瘤峠の戦い)など
被害は甚大で、侵攻は失敗に終わった。

信雄が無断で伊賀に侵攻し、
さらに敗戦したことを知った信長は激怒し、
信雄を叱責した。

信長が信雄に
「親子の縁を切る」と書いた書状を
したためたというからその怒りは
相当なものであったと考えられる。

また、
この信雄の敗戦を受け、
信長は忍者に対し警戒心を抱き、
後の第二次伊賀の乱へ繋がっていく。

しかし
信長はこの頃石山本願寺との抗争が激化し、
伊賀国平定は後回しせざるを得なかった。

映画『忍びの国』の世界ですな❗

第一次天正伊賀の乱