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2019/10/18

八幡原の戦い

10月18日
金曜日

八幡原の戦い

1561年10月18日
(永禄4年9月10日)

川中島の戦い: 八幡原の戦い。

川中島の戦い(かわなかじまのたたかい)は、
日本の戦国時代に、
甲斐国(現在の山梨県)の戦国大名である
武田信玄(武田晴信)と
越後国(現在の新潟県)の戦国大名である
上杉謙信(長尾景虎)との間で、
北信濃の支配権を巡って行われた数次の戦いをいう。

最大の激戦となった第四次の戦いが
千曲川と犀川が合流する三角状の平坦地である
川中島(現在の長野県長野市南郊)を中心に
行われたことから、
その他の場所で行われた戦いも総称として
川中島の戦いと呼ばれる。

この戦による死者は、
上杉軍が3000余、武田軍が4000余と伝えられ、
互いに多数の死者を出した。

信玄は、八幡原で勝鬨を上げさせて引き上げ、
政虎も首実検を行った上で越後へ帰還している。

『甲陽軍鑑』はこの戦を
「前半は上杉の勝ち、後半は武田の勝ち」としている。

合戦後の書状でも、双方が勝利を主張しており、
明確な勝敗がついた合戦ではなかった。

しかし
武田軍にとってはこの戦で家中の調整役であった
信玄の実弟信繁が討ち死にしてしまったことが
後の義信事件の遠因になったとする見解もある。

この合戦に対する政虎の感状が3通残っており、
これを「血染めの感状」と呼ぶ。

信玄側にも2通の感状が確認されているが、
柴辻俊六を始め主な研究者は、
文体や書体・筆跡等が疑わしいことから、
偽文書であると推測している。


武田軍

旗本本隊(8000人)

総大将:武田信玄
武田信繁、武田義信、武田信廉、武田義勝(望月信頼)、穴山信君、飯富昌景(山県昌景)、工藤祐長(内藤昌豊)、諸角虎定、跡部勝資、今福虎孝、浅利信種、山本勘助、室賀信俊

妻女山別働隊(12000人)

春日虎綱(高坂昌信)、馬場信房、飯富虎昌、小山田信有(弥三郎)?、甘利昌忠、真田幸綱、相木昌朝、芦田信守、小山田虎満(昌辰)、小幡憲重

上杉軍(13000人)

総大将:上杉政虎
柿崎景家、斎藤朝信、本庄実乃、色部勝長、五十公野治長、山吉豊守、安田長秀、長尾政景、加地春綱、中条藤資、村上義清、高梨政頼、北条高広、宇佐美定満、荒川長実、志田義時
直江実綱(小荷駄護衛)
甘粕景持(殿(しんがり))

八幡原の戦い

2019/10/17

自転車屋の生き物歳時記 コノハチョウ

10月17日
木曜日

自転車屋の生き物歳時記

コノハチョウ

昨日の夕方
お店に珍しいチョウが迷い込んできた❗

枯れ葉みたいなコノハチョウだ❗

コノハチョウ(木の葉蝶・Kallima inachus)は、
チョウ目(鱗翅目)・タテハチョウ科に分類される
チョウの一種。

翅の裏面が枯葉のように見えることからこの名があり、
隠蔽擬態をする代表的な昆虫の一つに挙げられる。

沖縄県指定天然記念物(1969年)、
準絶滅危惧(NT)(環境省レッドリスト)。

成虫の前翅長は45-50mm。

翅の裏面は枯葉に非常によく似た模様を持つ。

模様は個体変異が多く、
1匹ずつ模様が異なると言ってもよい。

さらに
前翅の先端は広葉樹の葉先のように尖り、
後翅の後端は葉柄のように細く突出する。

一方、
翅の表側は藍色で、前翅に太い橙色の帯が入り、
裏側とは対照的な鮮やかな配色である。

翅の裏側が枯葉に似るため、
擬態の典型例としてよく知られている昆虫である。

暗い熱帯雨林内に生息する。

成虫は1年のうちに数回発生を繰り返し、
ほぼ年中見られる。

この種を含め、
タテハチョウ科はあまり花には訪れず、
樹液や腐った果実、獣糞などにやって来て汁を吸う。

幼虫は
キツネノマゴ科のオキナワスズムシソウ、
セイタカスズムシソウ、オギノツメなどを食草とする。

擬態ではないとする説もある。
「もしも枯葉に似せた姿を擬態として用いるならば、
枯葉を背景に羽根の裏を見せるか、
枯れ枝に葉のような姿で止まるべきだと考えられるが、
この蝶は葉の上で翅を広げるか、
太い幹に頭を下に向けて止まるため、
枯葉に似せる意味がないだろう」と云った議論があり、
実際にこの擬態が発揮される状況は少ない、
というのである。

インド北部から
ヒマラヤ、インドシナ半島、中国、台湾、
先島諸島から沖縄諸島、
奄美群島の沖永良部島と徳之島にかけて分布する。

コノハチョウ属(Kallima 属)の中では
最も広い分布域を持つ。

分布域内でいくつかの亜種に分かれており、
日本に分布するものは亜種 K. i. eucerca Fruhstorfer, 1898 とされる。

宮崎県以南で見られる。

沖縄県内では天然記念物指定のため採集できない。

自転車屋の生き物歳時記  コノハチョウ

2019/10/17

神嘗祭(かんなめさい)

10月17日
木曜日

神嘗祭(かんなめさい)

天皇が、
その年の新穀を天照大神に奉納する祭。

1947年(昭和22年)までは大祭日であった。

神嘗祭(かんなめさい・かんなめのまつり
・かんにえのまつり)は宮中祭祀のひとつ。

大祭。

五穀豊穣の感謝祭にあたり、
宮中および神宮(伊勢神宮)で儀式が行われる。

また、祝祭日の一つで、秋の季語でもある。

「神嘗」は、
「神の饗(あえ)」が変化したと言われる。

「饗え」は食べ物でもてなす意味である。

また、饗は新殻を意味する贄(にえ)が
転じたとする説もある。

かつては
9月11日(旧暦)に勅使に御酒と神饌を授け、
9月17日(旧暦)に奉納した。

1873年(明治6年)の太陽暦採用以降は
新暦の9月17日に実施となったが、
稲穂の生育が不十分な時期であるため、
1879年(明治12年)以降は月遅れとして
10月17日に実施されている。

また、
「年中祭日祝日ノ休暇日ヲ定ム」および
「休日ニ関スル件」により、
1874年(明治7年)から
1947年(昭和22年)まで
同名の祝祭日(休日)であった。

新嘗祭は
「勤労感謝の日」として現在まで
祝日として継続しているが、
神嘗祭は戦後は平日となっている。

古来より神嘗祭には
皇室から神宮へ幣帛使が派遣されたが、
応仁の乱以降は中断も多かった。

しかし、
1647年(正保4年)に
幣帛使の発遣が復活して以降は
中断なく派遣が行われている。

1871年(明治4年)以降は
皇居の賢所でも神嘗祭の儀式が行われた。 

神嘗祭の儀式に先立って、
天皇は宮中三殿の神嘉殿南庇で神宮を遥拝する。

1908年(明治41年)9月19日制定の
「皇室祭祀令」では大祭に指定。

同法は
1947年(昭和22年)5月2日に廃止されたが、
以降も宮中および神宮では
従来通りの神嘗祭が行われている。

神嘗祭(かんなめさい)