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2019/11/21

同期のサクラ

11月21日
木曜日

同期のサクラ

私には夢があります。
故郷の島に橋をかける事です。

私には夢があります。
信じ合える仲間を作る事です。

私には夢があります。
信じ合える仲間と
人々が幸せになれる建物を作る事です。



一番気に入っているドラマです❗

高畑充希は
期待を裏切りません😄

同期のサクラ

2019/11/20

荒木村重の謀反

11月20日
水曜日

荒木村重の謀反

1578年11月20日
(天正6年10月21日)

織田信長に帰属していた荒木村重が謀反。

荒木 村重(あらき むらしげ)は、
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。

利休十哲の1人である。

天正6年(1578年)10月

三木合戦で
羽柴秀吉軍に加わっていた村重は
有岡城(伊丹城)にて突如、
信長に対して反旗を翻した。

一度は糾問の使者
(明智光秀、松井友閑、万見重元)に説得され翻意し、
釈明のため安土城に向かったが、
途中で寄った茨木城で家臣の中川清秀から
「信長は部下に一度疑いを持てば
いつか必ず滅ぼそうとする」との
進言を受け伊丹に戻った。

秀吉は村重と旧知の仲でもある
小寺孝隆(官兵衛、のちの黒田孝高)を使者として 有岡城に派遣し翻意を促したが、
村重は孝高を拘束し土牢に監禁した。

以後、
村重は有岡城に篭城し、
織田軍に対して1年の間徹底抗戦したが、
側近の中川清秀と高山右近が信長方に寝返ったために 戦況は圧倒的に不利となった。

その後も万見重元らの軍を打ち破るなど、
一旦は織田軍を退けることに成功するが、
兵糧も尽き始め、
期待の毛利氏の援軍も現れず窮地に陥ることとなる。

それでも村重は
「兵を出して合戦をして、その間に退却しよう。
これがうまくいかなければ尼崎城と花隈城とを明け渡して助命を請おう」と言っていたが、 

天正7年(1579年)9月2日

単身で有岡城を脱出し、
嫡男・村次の居城である
尼崎城(大物城)へ移ってしまった。

11月19日

信長は
「尼崎城と花隈城を明け渡せば、
おのおのの妻子を助ける」という約束を、
村重に代わって有岡城の城守をしていた
荒木久左衛門(池田知正)ら
荒木の家臣たちと取り交わした。

久左衛門らは織田方への人質として妻子を有岡城に残し、尼崎城の村重を説得に行ったが、
村重は受け入れず、窮した久左衛門らは
妻子を見捨てて出奔してしまった。

信長は村重や久左衛門らへの見せしめの為、
人質の処刑を命じた。

12月13日

有岡城の女房衆122人が
尼崎近くの七松において鉄砲や長刀で殺された。

12月16日

京都に護送された
村重一族と重臣の家族の36人が、
大八車に縛り付けられ京都市中を引き回された後、
六条河原で斬首された。

その後も信長は、
避難していた荒木一族を発見次第皆殺しにしていくなど、徹底的に村重を追及していった。

天正9年(1581年)8月17日には、
高野山金剛峯寺が村重の家臣をかくまい、
探索にきた信長の家臣を殺害したため、
全国にいた高野山の僧数百人を捕らえ、殺害している。

しかし
肝心の村重本人は息子・村次と共に
荒木元清のいる花隈城に移り(花隈城の戦い)、
最後は毛利氏に亡命し、尾道に隠遁したとされる。

天正10年(1582年)6月

信長が
本能寺の変で横死すると堺に戻りそこに居住する。

豊臣秀吉が覇権を握ってからは、
大坂で茶人として復帰し、千利休らと親交をもった。

しかし
有岡城の戦いでキリシタンに恨みを持っていた村重は、
小西行長や高山右近を讒訴して失敗し、
秀吉の勘気を受けて長く引見を許されなかった。

さらに、
秀吉が出陣中、
村重が秀吉の悪口を言っていたことが
北政所に露見したため、処刑を恐れて出家し、
荒木道薫(どうくん)となった。

天正14年(1586年)5月4日

堺で死去。享年52。

荒木村重の謀反

2019/11/19

明徳の和約(南北朝時代が終結)

11月19日
火曜日

明徳の和約
(南北朝時代が終結)

1392年11月19日
(明徳3年/元中9年閏10月5日)

明徳の和約。

南朝の後亀山天皇が
北朝の後小松天皇に三種の神器を譲渡し、
日本の南北朝時代が終結。

明徳の和約(めいとくのわやく)は、
南北朝の内乱の講和条約で、
元中9年/明徳3年10月27日
(ユリウス暦1392年11月12日)に
南朝(大覚寺統)と北朝(持明院統)間で、
和議と皇位継承について締結された約定。

南北合体条件(なんぼくがったいじょうけん)とも。

南朝の後亀山天皇と
北朝の征夷大将軍 足利義満の両首脳間のもと、
南朝の参議 楠木正儀が中心となって
合一の下準備が進められ、正儀の死後は、
南朝では右大臣 吉田宗房と前内大臣 阿野実為が、
北朝では祠官・公卿の正三位
吉田兼煕が交渉の窓口となった。

この和約に従って、
同年閏10月5日
(ユリウス暦1392年11月19日)、
南朝の後亀山天皇が吉野から京都に帰還して、
北朝の後小松天皇に三種の神器を渡し、
南北合体(なんぼくがったい)もしくは
南北朝合一(なんぼくちょうごういつ)が実行された。

これによって、
延元元年/建武3年12月21日
(ユリウス暦1337年1月23日)以来の
朝廷の分裂状態が終了した。

明徳の和約(南北朝時代が終結)