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2019/03/08

母子と助産師の日

3月8日
金曜日

母子と助産師の日

村松志保子助産師顕彰会と 日本助産師会が制定。

「さん(3)ば(8)」にちなみ、
産婆・乳母の祖神として崇敬される
高忍日売神社(愛媛県伊予郡松前町鎮座)に
毎年全国各地の助産師が集いイベントを開催している。

かけがいのない命を産み出す
お手伝いを日夜されている
助産師さん!
素晴らしいお仕事です!

母子と助産師の日

2019/03/08

海がキレイになりすぎている

3月8日
金曜日

海がキレイになりすぎている

今週
大阪湾、播磨灘の
イカナゴ漁が解禁されましたが

やはり漁獲量が少なく
漁師さんも苦戦しているようです。

近年は
イカナゴに限らず
魚介類全般に漁獲量が激減しています。

海がキレイになりすぎていて
魚が減っていると言う事があるみたいです。

農林水産統計などによると、
瀬戸内海の漁獲量は
1982年(昭和57年)の46万トンをピークに減少し、 2010年(平成22年)は17万5000トンまで
落ち込んだ。

80年代に比べ、
カレイ類が2分の1、
イカナゴは6分の1に。
アサリ類は約190分の1に激減した。

漁漁獲量減少の原因として、
漁師が口をそろえるのは
「海がきれいになり過ぎて、魚がいなくなった」
ということ。

兵庫県立農林水産技術総合センター
・水産技術センターの反田実所長は
「海水中の栄養塩が減り、
海が『貧栄養化』してきたためでは」と指摘する。

瀬戸内海では高度成長期、
工場排水や生活排水に含まれる栄養塩で富栄養化が進み、赤潮の被害が頻発。

このため国は、
79年(昭和54年)施行の
「瀬戸内海環境保全特別措置法」(瀬戸内法)で
工場排水制限や下水道整備などを進め、
01年(平成13年)には窒素やリンの総量規制も定めた。

その結果、
83年(昭和58年)に1リットルあたり
0・34ミリ・グラムだった海中の窒素量は、
昨年は0・14ミリ・グラムにまで減少。

海水の透明度も大阪湾で
3メートルから6メートルに広がった。

因果関係は明確ではないが、
漁獲量の減少は水質改善と並行して進む。

窒素などを吸収して育つ養殖ノリが、
栄養塩不足で黄色く変色する
「色落ち」が兵庫、岡山、大分県などで頻発。

大阪府南部では、
魚のエサ場や産卵場になる海藻類が生えず、
岩場がむき出しになる「磯焼け」もみられる。

私が考えるには
他にも
護岸がコンクリートで固められて
砂浜や磯が激減してしまっている事。

山からの栄養分が充分に海に注がれなくなっている事や
スギやヒノキの針葉樹の植林によって
広葉樹が失われ山の栄養分自体が減っている事。

関西空港や神戸空港などの海上施設による
潮流の変化など色んな要素が複雑に重なって
人工的に魚介類が住みにくい環境を
作り出してしまったと言う事なんだろうと思います。

今度は人工的に
海に栄養分を注ぎ込むような方策を取るようにして
魚介類が住みやすい環境を
取り戻さないといけないですね!

海がキレイになりすぎている

2019/03/07

薩長同盟

3月7日
木曜日

薩長同盟

1866年3月7日
(慶応2年1月21日)

薩摩藩と長州藩との間で薩長同盟が成立する。

長州・薩摩間の和睦は、
第一次長州征討中止の周旋や、
五卿の太宰府延寿王院への受け入れに奔走していた
福岡藩の尊皇攘夷派による
高杉晋作と西郷隆盛との会談
(対帆楼会談)を行ったことや、
イギリスの駐日公使であるハリー・パークスが
高杉晋作と会談したり、
薩摩や同じく幕末の政界で影響力を持っていた
土佐藩を訪問したりするなどして
西南の雄藩を結びつけさせたことに始まる。

土佐藩の脱藩浪人で、
長崎において亀山社中(後の海援隊)を率いていた
坂本龍馬や中岡慎太郎の斡旋もあって、
主戦派の長州藩重臣である
福永喜助宅において会談が進められ、
下関での会談を西郷が直前に拒否する事態もあったが、
1月21日(18日、22日説も)
小松邸で坂本を介して
薩摩藩の西郷、小松と長州藩の木戸貫治が
6か条の同盟を締結した。

他の薩摩側出席者は
大久保、島津伊勢、桂久武、吉井友実、奈良原繁。

その後の王政復古や
戊辰戦争への第一段階の様に置かれることが多いが、
以下に認められる様に、
幕府による長州藩処分問題に関して、
長州藩の状況が悪くなっても
薩摩藩は長州藩を支援するという内容であり、
共に倒幕へ向けて
積極的に動き出そうとするものではない。

また、「決戦」の相手として想定されているのは、
幕府そのものではなく「橋会桑」
(当時京都政局を制圧していた
一橋慶喜、松平容保(会津藩)、松平定敬(桑名藩)の3者。いわゆる一会桑政権)である。

一橋徳川家当主の慶喜は
固有の軍事力を殆ど保有しておらず、
軍事的対決の相手としては
会津・桑名両藩、
とりわけ会津藩を想定するものであった。

この密約に基づいて
薩摩藩は幕府による第二次長州征討に際し出兵を拒否し、以後薩長の連携関係は深まっていくこととなった。

薩摩藩士で、
明治期には島津久光の側近として
歴史編纂事業に従事した市来四郎は、
薩摩藩と長州藩の提携が成立したのは
より後年の1867年(慶應3年)11月、
薩摩藩主島津茂久が
多数の兵士を引き連れて上洛する際に
長州藩世子毛利広封と会見し、
出兵協定を結んだ時点であると指摘している。

薩長同盟