2019/12/11
後三年の役が終結
12月11日
水曜日
後三年の役が終結
1087年12月11日
(寛治元年11月14日)
後三年の役が終結。
後三年の役(ごさんねんのえき)は、
平安時代後期の
陸奥・出羽(東北地方)を舞台とした戦役である。
前九年の役の後、
奥羽を実質支配していた清原氏が消滅し、
奥州藤原氏が登場するきっかけとなった戦いである。
後三年合戦(ごさんねんかっせん)ともいう。
時代背景
11世紀、
東北地方には出羽国に清原氏、陸奥国に安倍氏という
強大な豪族が勢力を誇っていた。
しかし陸奥国の安倍氏は陸奥国府と対立し、
康平5年(1062年)に前九年の役で滅亡した。
この時、
戦役の最終局面で参戦して
国府側戦勝の原動力となったのが、
清原氏の清原武則である。
永保3年(1083年)に
後三年の役が始まるまでの
東北地方の政治状況ははっきりしないが、
清原氏の当主の座は
前九年の役当時の清原光頼から弟の武則の系統に遷り、
武則を経て武則の息子の武貞、
さらにその嫡子の真衡へと継承されていた。
武貞は前九年の役が終わった後、
安倍氏一門の有力豪族であった
藤原経清(敗戦後に処刑)の妻(有加一乃末陪)を
自らの妻としていた。
彼女は安倍頼時の娘であり、
経清との間に生まれた息子がいた。
この連れ子は武貞の養子となり、
清原清衡を名乗った。
さらにその後、
武貞と彼女の間に、
清原氏と安倍氏の惣領家の血を引いた家衡が生まれた。
戦後処理
朝廷は、上記戦役を義家の私戦とし、
これに対する勧賞はもとより戦費の支払いも拒否した。
更に義家は陸奥守を解任された
(後任は藤原基家。着任の翌年に死去)。
また義家が役の間、
決められた黄金などの貢納を行わず
戦費に廻していた事や官物から兵糧を支給した事から、
その間の官物未納が咎められ、
義家はなかなか受領功過定を通過出来なかった。
そのため義家は新たな官職に就くことも出来なかった。
ちなみに10年後の承徳2年(1098年)、
白河法皇の意向で受領功過定が下りるまで
その未納を請求され続けた。
結果として義家は、
主に関東から出征してきた将士に
私財から恩賞を出したが、
このことが却って関東における源氏の名声を高め、
後の源頼朝による
鎌倉幕府創建の礎となったともいわれている。
戦役後、
清衡は清原氏の旧領すべてを手に入れることとなった。
清衡は、
実父である藤原経清の姓藤原に復し(奥州藤原氏)、
清原氏の歴史は幕を閉じた。
2019/12/10
弟夫婦と忘年会
12月10日
火曜日
弟夫婦と忘年会
笠松の
お好み焼き千栄
(通称 暴力お好み)
弟が20時過ぎに
弟嫁が21時過ぎに来ました😅
19時過ぎから飲んでるので
その前に
こちらはもう酔ってます😅
彼らが来る前に
オイラが食べたのは
スジネギ薄焼き(神戸焼き)
ガーリックライス
2019/12/10
落ち葉掃き
12月10日
火曜日
落ち葉掃き
ウチの前の街路樹
トウカエデ
まだしつこく
葉っぱは残っています😅
来週ぐらいまでは
落ち葉掃きが続きそうですな😅