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2019/03/20

一ノ谷の戦い

3月20日
水曜日

一ノ谷の戦い

1184年3月20日
(元暦元年2月7日)

源義経らが
「鵯越(ひよどりごえ)の奇襲」により平氏に圧勝。

2月7日払暁、
先駆けせんと欲して義経の部隊から抜け出した
熊谷直実・直家父子と平山季重らの5騎が
忠度の守る塩屋口の西城戸に現れて
名乗りを上げて合戦は始まった。

平氏は最初は少数と侮って相手にしなかったが、
やがて討ち取らんと兵を繰り出して直実らを取り囲む。

直実らは奮戦するが、
多勢に無勢で討ち取られかけた時に
土肥実平率いる7000余騎が駆けつけて激戦となった。

午前6時、
知盛、重衡ら平氏軍主力の守る
東側の生田口の陣の前には
範頼率いる梶原景時、畠山重忠以下の大手軍5万騎が布陣。

範頼軍は激しく矢を射かけるが、
平氏は壕をめぐらし、逆茂木を重ねて
陣を固めて待ちかまえていた。

平氏軍も雨のように矢を射かけて応じ
源氏軍をひるませる。

平氏軍は2000騎を繰り出して、白兵戦を展開。

範頼軍は河原高直、藤田行安らが討たれて、
死傷者が続出して攻めあぐねた。

そこへ梶原景時・景季父子が逆茂木を取り除き、
ふりそそぐ矢の中を突進して
「梶原の二度懸け」と呼ばれる奮戦を見せた。

義経と分かれた
安田義定、多田行綱らも夢野口(山の手)を攻撃する。

生田口、塩屋口、夢野口で激戦が繰り広げられるが、
平氏は激しく抵抗して、
源氏軍は容易には突破できなかった。

精兵70騎を率いて、
一ノ谷の裏手の断崖絶壁の上に立った義経は
戦機と見て坂を駆け下る決断をする。

崖を駆け下った義経らは平氏の陣に突入する。

予想もしなかった方向から攻撃を受けた
一ノ谷の陣営は大混乱となり、
義経はそれに乗じて方々に火をかけた。

平氏の兵たちは我先にと海へ逃げ出した。

混乱が波及して
平忠度の守る塩屋口の西城戸も突破される。

逃げ惑う平氏の兵たちが船に殺到して、
溺死者が続出した。

生田口の東城戸では
副将の重衡が8000騎を率いて
安田義定、多田行綱らに攻められ危機に陥っている
夢野口(山の手)の救援に向かった。

午前11時頃、
一ノ谷から煙が上がるのを見た範頼は
大手軍に総攻撃を命じた。

知盛は必死に防戦するが兵が浮き足立って、
遂に敗走を始めた。

安徳天皇、建礼門院らと沖合いの船にいた
総大将の宗盛は敗北を悟って屋島へ向かった。

西城戸の将の忠度は
逃れようとしていたところを
岡部忠澄に組まれて負傷し、
覚悟して端座して念仏をとなえ首を刎ねられた。

歌人だった忠度が
箙に和歌を残していた逸話が残っている。

合戦の一番乗りの功名を果たした
熊谷直実は敵を探していると、
馬に乗って海に入り、沖の船へ逃れようとする
平氏の武者を見つけて
「敵に背を向けるのは卑怯であろう。戻りなされ」
と呼びかけた。

武者はこれに応じて、
陸へ引きかえして直実と組むが、
勇士の直実にはとても敵わず、組み伏せられた。

直実は首を取ろうとするが、
武者の顔を見ると薄化粧をした
美しい顔立ちの少年だった。

武者は清盛の弟経盛の子敦盛16歳と名乗った。

直実の息子直家も同じ16歳で、
憐れに思い逃そうとするが、
他の源氏の武者が迫っており、
とうてい逃れることはできまいと
泣く泣く敦盛を討ち取った。

敗走した平重衡は、
梶原景季と庄氏によって捕らえられた。

この敗走で平氏一門の多くが討たれ、
平氏は屋島へ逃れて、
戦いは鎌倉方の勝利に終わった。

一ノ谷の戦い

2019/03/19

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「3月18日(火)」

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今週前半の出荷分

2019/03/19

ヨーロッパで一番の親日国 ポーランド

3月19日
火曜日

ヨーロッパで一番の親日国

ポーランド

ヨーロッパの中央に位置し、
ロシアとドイツという大国に挟まれたポーランドは、
隣接する大国に国土を分断され、
あるいは戦場となって蹂躙されてきた。

第二次世界大戦後は、
意に反して共産主義独裁国家ソ連の陣営に
否応なく組み込まれ、
約半世紀にわたり共産主義の弾圧に苦しんだ。

そんなポーランドは、
ヨーロッパ一随一の親日国家であることを
ご存じだろうか。

その理由の一つが、
第一次世界大戦(1914~1918年)末期の
「シベリア出兵」時のある出来事にある。

当時、ロシア革命に干渉すべく、
日本、米国、英国、フランスらの連合国が
シベリアに出兵した。

日本は、兵力7万3000人と戦費10億円を投じ、
約3000人もの戦死者を出した。

だがその結果として、
日本がシベリアで孤立した765人のポーランド人孤児を救うことができたのである。

ではなぜシベリアにポーランド人が? 
19世紀、ロシア帝国の支配下にあったポーランドで
独立を勝ち取るための、民衆蜂起が始まった。

1830年の11月蜂起、
そして1863年の1月蜂起で
ポーランド人が立ち上がった。

だが、
圧倒的軍事力を誇るロシア軍に制圧され、
その結果多くのポーランド人が
政治犯としてシベリアに送られたのだった。

さらに
その後の第一次世界大戦では、
国土がロシア軍とドイツ軍の
激しい戦場となったため
逃れてきた人々が加わり、
当時シベリアには15万~20万人の
ポーランド人がいたという。

戦後、
ポーランドは独立を回復したが、
大戦末期に起こったロシア革命によって
祖国への帰国は困難となった。

シベリアのポーランド人は、
ロシア内戦の中で凄惨な生き地獄を味わわされ、
多数の餓死者や病死者、凍死者を出したのだった。

こうした惨状を知った
極東ウラジオストク在住のポーランド人、
アンナ・ビエルケビッチ女史らが
「ポーランド救済委員会」を1919年に立ち上げ、
「せめて親を失った孤児だけでも救わねば」
と東奔西走した。

当初は
米国の赤十字が動くはずだったが、
肝心の米軍が撤退となっては
どうしようもなかった。

そこで1920年6月、
ポーランド救済委員会は地理的にシベリアに近く、
また軍を派遣していた日本に救援を打診した。

すると
日本の外務省が
日本赤十字社に救済事業を要請し、
日本赤十字は、
陸軍大臣の田中義一と海軍大臣の加藤友三郎に
合意を得て救護活動を決定した。

早くもその2週間後、
ポーランド孤児らを乗せた輸送船が
ウラジオストクを出発し、
福井県・敦賀港に到着したのだった。

このとき、
日本赤十字をはじめ、軍や警察、役場、
敦賀市民は、孤児たちを温かく迎え入れた。

食事や菓子でもてなし、
病気の治療にあたるなど、
手厚く養護したのである。

こうして
1922年8月までに救出された
ポーランド孤児は765人を数えた。

ポーランド政府の要請で、
元気を取り戻した孤児たちは
横浜港や神戸港から祖国へ帰還していった。

ところが、
船で日本を離れるとき、
感動的な出来事がおきた。

ポーランド孤児たちは
「日本を離れたくない」と泣き出したのである。

シベリアで
極寒・極貧の生活を強いられてきた
孤児たちにとって、日本はまさに天国だったのだ。

孤児らは船上から「アリガトウ」を連呼し、
「君が代」とポーランド国歌を高らかに歌い
感謝の意を表して別れを惜しんだという。

祖国に送り届けられた孤児らは、
ポーランド北部のグダニスク郊外の町、
ヴェイヘロヴォの施設に収容されて養護された。

その場所は現在、特別支援学校となり、
当時孤児たちが過ごしたレンガ造りの建物が
そのままの姿で使用されている。

驚くべきは、
廊下に日の丸とポーランド国旗をあしらった
孤児救出のパネルが飾られ、
100年前の出来事が
今もしっかりと語り継がれていることだった。

こうして育った青年の中には
第二次世界大戦時にナチスに迫害されたユダヤ人を命がけで救う者もあらわれたのである。

そしてポーランド政府が
ポーランド孤児救援に対し、
日本に恩返しするときがやってきた。

平成7年と8年、
ポーランド政府が阪神淡路大震災の被災児童らを
ポーランドに招待し、
ワルシャワで4名のポーランド孤児との対面などを通じて子供らを励ましたのだった。

これは
ポーランド科学アカデミーのスタニスワフ・フィリペック博士の尽力によるものだった。

当時、駐日ポーランド大使館の参事官だった
フィリペック博士は募金を呼び掛け、
その資金で阪神淡路大震災による日本人孤児や被災者を
ポーランドに招待したのである。

その動機についてフィリペック博士はこういう。

「私のおばあちゃんから、
日本に感謝すべきことがあるといわれてきましたから、何か役に立てないかと考えたのでした」

その後もポーランド政府は、
平成23年に発生した東日本大震災で
被災した岩手県と宮城県の子供たちを
2週間もポーランドに招くなど、
100年前のポーランド孤児救出劇への
恩返しは続いている。

ヨーロッパで一番の親日国  ポーランド