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2019/03/28

三ツ矢サイダーの日

3月28日
木曜日

三ツ矢サイダーの日

「み(3)つ(2)や(8)」の語呂合わせ。

アサヒ飲料が制定。

三ツ矢サイダーは、
兵庫県川辺郡多田村字平野
(現在の川西市平野 多田銀山の一部)で
平野鉱泉が発見されたことにはじまる。

かつてこの地では
摂津三湯に数えられた名湯
「平野の湯」と呼ばれる炭酸泉の湯治場があったが、
江戸時代末期には廃れていた。

明治時代に入り、
外国人接待用の炭酸水を調達するために
宮内省の命を受けて全国の水源を調査していた
イギリス人理学者ウィリアム・ガランによって
平野鉱泉が再発見され、
炭酸水の御料品工場が建設された。

1884年(明治17年)に
三菱財閥が宮内庁から多田銀山の払い下げを受け、
三菱商会が「平野水」として炭酸水を販売。

1885年(明治18年)には明治屋が採取権を得て、
源満仲にまつわる当地の言い伝えから
「一本矢礦泉」に改名して販売。

1889年(明治22年)には
「三ツ矢平野水(みつやひらのすい)」
の名称で販売された。

しかし販売不振が続いたため、
1905年には
三ツ矢平野礦泉から販売された。

なお平野水は夏目漱石も愛飲しており
『行人』・『思い出す事など』にも登場、
また大正天皇の皇太子時代の
1897年(明治20年)には御料品としても採用された。

1907年(明治40年)に帝国礦泉株式会社
(旧 三ツ矢平野礦泉合資会社)が設立され、
従来の平野水を元に、
砂糖を煮詰めた茶褐色のカラメルや
イギリスから輸入したサイダーフレーバーを加えた
「三ツ矢印 平野シャンペンサイダー」を発売し、
1921年に
「三ツ矢シャンペンサイダー」に改称されて販売された。

1921年(大正10年)に
加富登麦酒が帝国礦泉株式会社と日本製壜を吸収合併し
日本麦酒鑛泉株式会社となり、
1932年(昭和8年)に
大日本麦酒株式会社と併合されたが、
「三ツ矢シャンペンサイダー」は
日本麦酒鑛泉のユニオンビールと共に
引き続き製造販売された。

太平洋戦争では
サイダーは軍需品だったため製造が続けられていたが、
末期には工場を軍需工場として貸し出されたり、
戦災で設備の一部を焼失するなどしていたため、
終戦の翌年の1946年(昭和21年)7月まで
製造が中断されていた時期があった。

1946年(昭和21年)7月から製造が再開されたが、
国による砂糖の統制が行われていたため、
使用が解禁されたばかりの
人工甘味料ズルチンに切り替えて製造再開
(のちにズルチンの安全性に疑問が出たため、
自主的に使用中止)。

1951年(昭和26年)には
砂糖の統制が終了したことから、砂糖を使った
「全糖三ツ矢シャンペンサイダー」も発売。

なお「シャンパン」の名称使用について、
フランスのシャンパンメーカーから
全国清涼飲料連合会に抗議が来たため、
1968年(昭和43年)に「三ツ矢サイダー」に改名した。

記念日は
語呂合わせですが、
三ツ矢サイダーの歴史は長いですね❗

三ツ矢サイダーの日

2019/03/27

さくらの日

3月27日
水曜日

さくらの日

日本さくらの会が
1992年(平成4年)に制定。

3×9(さくら)=27の語呂合せと、
七十二候のひとつ
「桜始開(さくらはじめてひらく)」が
重なる時期であることから。

さくらも
そろそろ開花の時期ですね❗

さくらの日

2019/03/27

弥助

3月27日
水曜日

弥助

1581年3月27日
(天正9年2月23日)

イエズス会巡察使
アレッサンドロ・ヴァリニャーノが
黒人弥助同道で織田信長に謁見する。

弥助(やすけ、生没年不詳)は、
戦国時代の日本に渡来した黒人で、
宣教師所有の奴隷として、
戦国大名・織田信長への献上品とされたが、
信長に気に入られ、
その家臣に召し抱えられた。

初めて黒人を見た信長は、
肌に墨を塗っているのではないかとなかなか信用せず、
着物を脱がせて体を洗わせたところ、
彼の肌は白くなるどころかより一層黒く光ったという。

本当に彼の肌が黒いことに
納得した信長は
この黒人に大いに関心を示し、
ヴァリニャーノに交渉して譲ってもらい、
「弥助」と名付けて
正式な武士の身分に取り立て、
身近に置くことにしたと、
イエズス会日本年報にあり、
信長は弥助を気に入って、
ゆくゆくは殿(城主)にしようとしていたという。

弥助にしてみれば
奴隷であった自分を
武士扱いしてくれた信長には
さぞ感謝した事だろうと思いますよ

本能寺の変で
信長の首が見つからなかったのは
敵に主君の首を渡すまいと
弥助が首を抱えて
走りに走り
遠くまで持ち去ったとの逸話もありますね。

弥助