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2019/04/06

自転車屋の生き物歳時記 モンシロチョウ

4月6日
土曜日

自転車屋の生き物歳時記

モンシロチョウ

昨日
モンシロチョウを見ました。
たぶん今年初ですかね?

モンシロチョウ(紋白蝶、学名:Pieris rapae)は、
チョウ目(鱗翅目)アゲハチョウ上科
シロチョウ科に分類されるチョウの一種。

畑などの身近な環境でよく見られるチョウである。

比較的採取しやすいため、
アゲハチョウの仲間やカイコなどと並び、
チョウ目(鱗翅目)昆虫の生態や生活環を学習する
教材としてもよく活用される。

前翅の長さは3cmほど。

翅は白いが、前翅と後翅の前縁が灰黒色で、
さらに前翅の中央には灰黒色の斑点が2つある。

和名はこの斑点を紋に見立てたもの。

また、
春に発生する成虫は夏に発生する成虫よりも白っぽい。

オスとメスを比較すると、
オスは前翅の黒い部分が小さく、全体的に黄色っぽい。

メスは前翅の黒い部分が多く、
前翅のつけ根が灰色をしている。

なお、
翅に紫外線を当てるとメスの翅が白く、
オスの翅が黒く見えるため、
オスメスの区別がよりはっきりする。

紫外線は人間には見えないが、
モンシロチョウには見えると考えられていて、
モンシロチョウはこの色の違いで
オスメスの判別をしているとみられる。

全世界の温帯、亜寒帯に広く分布する。

広い分布域の中でいくつかの亜種に分かれており、
そのうち日本に分布するのは
亜種 P. r. crucivora とされている。

幼虫の食草は
キャベツ、アブラナ、ブロッコリーなどの
アブラナ科植物なので、
それらの農作物の栽培に伴って分布を広げてきた。

日本のモンシロチョウは
奈良時代に大根の栽培と共に
移入されたと考えられている。

北米では、
1860年頃カナダのケベック州に移入され、
現在では北はカナダ・アラスカ南部から
南はメキシコ北部まで分布する。

分布域を広げるためか、
まれに大群を作って移動することがある。

成虫は
3月頃から10月頃まで長い期間にわたって見られ、
年に4-5回ほど発生するが、
発生する時期や回数は地域によって異なる。

北海道の一部のように寒冷な地域では
年に2回ほどしか発生しないが、
温暖な地域では年に7回発生することもある。

蛹で越冬する。

ふ化した時は自分の卵の殻を、
脱皮した時はその皮を食べる。

モンシロチョウのオスは
メスを見つけると追いかけて交尾を行う。

モンシロチョウを観察すると
2匹-数匹が固まって飛んでいるのがよく見かけられるが、これは1匹のメスを複数のオスが追いかけてる場合が多い。

メスが草花などに止まると
これらのオスが交尾しようと近寄る。

ただしメスがすでに交尾済みの場合、
メスは翅を開いて腹部を高く突き出し、
交尾拒否姿勢をとる。

交尾の終わったメスは
キャベツなどのアブラナ科植物にやって来て、
葉の裏で腹部を曲げ、1個ずつ産卵する。

卵は黄色で、
長さ1mmほどのびんのような形をしている。

卵は1週間ほどで孵化(ふか)する。

卵の殻を内側からかじって幼虫が姿を現すが、
孵化したばかりの幼虫は
黄色で短い毛が体の各所に生えており、
アオムシというよりケムシに近い。

孵化した幼虫はしばらく卵の横で休息し食事に移るが、
最初の食べ物は葉ではなく
自分の入っていた卵の殻である。

卵の殻は蛋白質に富んでおり、最初の栄養分となる。

葉を食べはじめた幼虫は体色も緑色になり、
アオムシとなる。

孵化後蛹になるまでの期間は
暖かい時期には約2週間であり、
その間に4回脱皮し、体長4cmほどに成長する。

蛹になる直前の幼虫はせわしなく動き回り、
蛹になるために適した場所を探す。

適した場所を見つけると壁面に糸の塊を吐き、
そこに上向きになって尾部をくっつける。

さらに頭部を背中側に反らせながら
胸部を固定する糸の帯を吐き、
体を固定した後に脱皮して蛹になる。

越冬世代は数ヶ月ほど蛹のままで過ごすが、
暖かい時期は1週間ほどでも羽化する。

羽化が近くなると蛹は黄色っぽくなり、
皮膚越しに成虫の模様が浮かぶ。

羽化はたいてい朝方に行われる。

蛹の頭部と胸部の境界付近から
皮膚が割れて成虫が顔を出し、蛹の殻からはい出てくる。

成虫は縮んだ翅に体液を送りこんで翅を伸ばし、
体が乾くと飛びたつ。

成虫の期間は2-3週間ほどで、この間に交尾・産卵を行う。

自転車屋の生き物歳時記  モンシロチョウ

2019/04/05

物部守屋

4月5日
金曜日

物部守屋(もののべのもりや)

585年4月5日(敏達天皇14年3月1日)

仏教排斥を唱える物部守屋が、
疫病流行の原因が仏教崇拝にあると奏上。

用明天皇2年(587年)、
かねてより対立していた崇仏派の蘇我氏と
排仏派の物部氏の間に武力闘争が発生した。

蘇我軍は
物部氏の本拠地であった河内国渋河
(大阪府東大阪市布施)へ攻め込んだが、
敵の物部守屋は
稲城(いなき、稲を積んだ砦)を築き、
自らは朴(えのき)の上から矢を放って防戦するので、
蘇我軍は三たび退却した。

聖徳太子こと厩戸皇子(当時14歳)は
蘇我氏の軍の後方にいたが、この戦況を見て、
白膠木(ぬるで)という木を伐って、
四天王の形を作り、
「もしこの戦に勝利したなら、
必ずや四天王を安置する寺塔(てら)を建てる」
という誓願をした。

その甲斐あって、
味方の矢が敵の物部守屋に命中し、
彼は「えのき」の木から落ち、
戦いは崇仏派の蘇我氏の勝利に終わった。

その6年後、推古天皇元年(593年)、
聖徳太子は摂津難波の荒陵(あらはか)で
四天王寺の建立に取りかかった。

寺の基盤を支えるためには、
物部氏から没収した奴婢と土地が用いられたという
(なお、蘇我馬子の法興寺は
上記の戦いの翌年から造営が始まっており、
四天王寺の造営開始はそれから数年後であった)。

当初
物部守屋の亡くなった土地に
四天王寺を建てたらしいのですが、

それが
現在の大阪の森ノ宮辺りで、
物部守屋が眠っているので、
守屋の森と呼ばれていたのが
森ノ宮と
呼ばれるようになったようですね❗

物部守屋

2019/04/05

清明

4月5日
金曜日

清明(せいめい)

二十四節気の一つ。

穀雨前日までである。

万物がすがすがしく明るく美しいころ。

『こよみ便覧』には
三月節に「万物発して清浄明潔なれば、
此芽は何の草としれるなり」と記されている。

様々な花が咲き乱れ、
お花見シーズンになる。

「清明」を花言葉にする花は
キンポウゲ科デルフィニウム属の
ヒエンソウ (Delphinium ajacis) である。

清明