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2019/04/16

自転車屋の生き物歳時記 ジャコウアゲハ

4月16日
火曜日

自転車屋の生き物歳時記

ジャコウアゲハ

いよいよ
各種のチョウ類が本格的に出現し始めた。
昨日は大きな
ジャコウアゲハを見かけた。

ジャコウアゲハ
(麝香鳳蝶、麝香揚羽、学名: Byasa alcinous または Atrophaneura alcinous)は、
チョウ目アゲハチョウ科のチョウの一種。

和名は、
雄成虫が腹端から麝香のような
匂いをさせることに由来する
(成分はフェニルアセトアルデヒド
であることが判明している)。

成虫は、前翅長45mm-65mm、
翅を大きく開くと約10cmほど。

他のアゲハチョウに比べると、
後翅が斜め後方に細長く伸びる。

成虫は雌雄の判別が容易で、
雄の翅色はビロードのような光沢のある黒色だが、
雌は明るい褐色である。

幼虫は、
ナミアゲハなどとは違い、終令になっても黒いままで、
形も全体に疣状の突起に被われ、
ずいぶん異なった姿をしているが、
つつくと臭角を出す点(他のアゲハ類と違い、臭角は少ししか出さない)は同じである。

成虫が発生するのは春から夏にかけてで、
その間に3-4回発生する。

成虫は
日中の午前8時ごろから午後5時ごろまで
活動するとみられる。

川原や荒地などの明るい場所や
生息地の上を緩やかに飛ぶ。

河川付近によく見られるのは、
そこが食草の一つである草本の
ウマノスズクサの成育環境であるからで、
畑の生垣付近など
ウマノスズクサの成育環境があれば見られる。

また、
木本のオオバウマノスズクサを食草とする地域では、
オオバウマノスズクサの生育環境である
山林の林縁部、渓谷などで本種が見られる。

幼虫はウマノスズクサ類を食草とする。

食草を良く食べ、
食草がなくなると共食いをすることもある。

冬は蛹で越冬し、
この時期の蛹は数か月羽化せずに過ごす。

暖かい時期の蛹は1-2週間ほどで羽化するが、
ときに長期休眠する蛹もある。

東アジア(日本、台湾、中国東部、朝鮮半島、
ロシア沿海地方)に分布する。

日本では、
秋田県以南から八重山諸島まで分布し、
南西諸島では多くの亜種に分けられる。

分布は局地的であるが、
突然発生することもあるため、
食草が無くなるとかなりの長距離を
移動するものと考えられている。

ジャコウアゲハの蛹は
「お菊虫」と呼ばれるが、
これは各地に残る怪談『皿屋敷』の「お菊」に由来する。

寛政7年(1795年)には、
播磨国・姫路城下に
後ろ手に縛られた女性のような姿をした
虫の蛹が大発生し、
城下の人々は
「昔、姫路城で殺されたお菊の幽霊が、
虫の姿を借りてこの世に帰ってきているのだ」
と噂したという。

このことに因み、
兵庫県姫路市ではジャコウアゲハを
市の蝶に指定している。

戦前まではお菊虫を
姫路城の天守やお菊神社でも売っていたといい、
志賀直哉の長編小説『暗夜行路』では、
主人公がお菊虫を買う描写がある。

2010年代半ば頃から、
姫路市内では本種の繁殖支援活動が盛んになり、
姫路科学館、手柄山など
食草を多数植え付けられた拠点周辺では
本種をよく目撃することができる。

姫路市自然観察の森では
ネイチャーセンターや園内で飼育しており、
一年中、成虫や幼虫、さなぎを観察することができる。

自転車屋の生き物歳時記  ジャコウアゲハ

2019/04/16

ボーイズビーアンビシャスデー

4月16日
火曜日

ボーイズビーアンビシャスデー

1877年(明治10年)4月16日

札幌農学校(現・北海道大学農学部)教頭の
ウィリアム・スミス・クラークが、
「Boys, be ambitious」の言葉を残して
北海道を去ったことにちなむ。

北海道の人は
クラーク博士の存在自体は
さすがに地元なので
ほぼ誰もが知っていますが

しかし
何をしていた人なのかは
あまり知らないようです😅

少年よ❗
大志を抱け❗

ボーイズビーアンビシャスデー

2019/04/15

日本初のターミナルデパート

4月15日
月曜日

日本初のターミナルデパート

1929年(昭和4年)4月15日

阪急百貨店開店。

日本初のターミナルデパート。

1920年(大正9年)11月1日に、
5階建ての阪急梅田ビル1階に
東京・日本橋の老舗呉服店系百貨店・白木屋を招致して
白木屋梅田出張店が開店した。

55坪の店舗で食料品や日用雑貨の販売を行わせ、
11月5日、2階に阪急直営である
大衆食堂の阪急食堂を開設したのが始まりである。

この白木屋の店舗を
売上歩合制の家賃として売上実績のデータを入手し、
そのデータから梅田駅での
ターミナルデパートの可能性を固く信じた小林一三は、
契約期間が満了を理由に
白木屋との契約を解除して
1925年(大正14年)6月1日に
阪急梅田ビル2・3階に
自社直営の食料品や生活雑貨中心の
スーパーに近い形態の阪急マーケット、
4・5階に直営の阪急食堂を移設して開業し、
直営でのターミナルデパートの第一歩を踏み出した。

その後、
梅田駅ビルを地上8階地下2階に全面改築して
大幅に拡張し、
敷地面積328坪で延べ床面積3280坪という
百貨店に相応しい規模の店舗を作って
1929年(昭和4年)4月15日に
鉄道会社直営=電鉄系百貨店として
阪急百貨店を開業した。

この開業を
日本初のターミナルデパート
(ターミナルデパートは欧米にない
日本独特のもののため同時に世界初となる)
とする見方も多いが、
現・近鉄大阪上本町駅に設けられた
三笠屋百貨店を
最初のターミナルデパートとする見方もある。

開業直前の
1929年(昭和4年)4月13日・14日掲載の
開店新聞広告に
「どこよりもよい品物を、どこよりも安く売りたい」とのコピーを入れたように
開業当初は大衆向けの路線を採り、
沿線の行楽に向かう人々への弁当販売を手がける等、
今日のターミナルデパートの雛形となった存在としても
知られる。

経営の中心であった7・8階の大食堂は、
高層階からの眺望や食券方式などの目新しさにより、
人気を博した。

看板メニューとして
当時高級品だったライスカレーを
コーヒー付き25銭で提供するなど、
ランチも名物として話題となった。

開業直後に襲った昭和恐慌の時代に、
ライスのみを注文してテーブルに備えられていた
ウスターソースをかけただけで食べる
ソーライスが流行した際は、
他の店舗や当店の大食堂の店員が
締め出しを図ろうとした。

しかし、
創業者の小林一三は
「今は貧しいが、やがて結婚し子供ができる。
その時ここでの食事を思い出し、
家族で来てくれるだろう」と考えて
「ライスだけの客歓迎」と張り紙をさせ、
福神漬けまで付けて提供するなど、話題となった。

日本初のターミナルデパート