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2020/01/28

上杉謙信(長尾景虎)

1月28日
火曜日

上杉謙信
(長尾影虎)

1549年1月28日
(天文17年12月30日)

長尾景虎(上杉謙信)が
家督を継ぎ春日山城へ入城する。

上杉 謙信(うえすぎ けんしん)
/ 上杉 輝虎(うえすぎ てるとら)は、
戦国時代の越後国の大名。

関東管領(1561年 ~1578年)。

山内上杉家16代当主。

戦国時代でも屈指の戦上手とされ、
その神懸った戦績から後世、
軍神や「越後の虎」、「越後の龍」などと称された。

越後守護・上杉家に仕える
越後守護代・長尾為景(三条長尾家)の
四男として生まれ、
初名は長尾 景虎(ながお かげとら)。

1561年(景虎31歳)、
関東管領・上杉憲政の養子となり
山内上杉氏の家督を譲られ
(「上杉」姓と憲政の「政」の1字を与えられ)
上杉 政虎(うえすぎ まさとら)と改名し、
上杉氏が世襲していた
室町幕府の重職関東管領を引き継いだ。

後に室町幕府の将軍・足利義輝より
偏諱(「輝」の1字)を受けて、
最終的には輝虎と名乗った。

謙信は、さらに後に称した法号である。

内乱続きであった越後国を統一し、
戦や政だけではなく、
産業を振興して国を繁栄させた。

他国から救援を要請されると
秩序回復のために幾度となく出兵し、
武田信玄、北条氏康、織田信長、
越中一向一揆、蘆名盛氏、能登畠山氏、
佐野昌綱、小田氏治、神保長職、椎名康胤らと
合戦を繰り広げた。

特に宿敵
武田信玄との5回にわたる川中島の戦いは
よく知られている。

さらに
足利将軍家からの要請を受けて上洛を試み、
越後国から北陸路を西進して
越中国・能登国・加賀国へ勢力を拡大したが
48歳で死去した。

兜は、飯綱明神前立鉄錆地張兜。

謙信には実子がおらず、
謙信の死後、
上杉家の家督の後継をめぐって御館の乱が勃発した。

謙信は、
他国から救援を要請されると出兵し、
「依怙(えこ)によって弓矢は取らぬ。

ただ筋目をもって何方(いずかた)へも合力す」
(私利私欲で合戦はしない。
ただ、道理をもって誰にでも力を貸す)

『白河風土記』と述べている。

また、
謙信が敵将
武田信玄に塩を送った逸話から、
「敵に塩を送る」という故事も生まれた。

上杉謙信(長尾景虎)

2020/01/27

江戸城 大奥

1月27日
月曜日

江戸城 大奥

1618年1月27日
(元和4年1月1日)

江戸城の大奥を男子禁制とする。

大奥(おおおく)は、
江戸城に存在した将軍家の子女や正室、
奥女中(御殿女中)たちの居所。

あるいは、
江戸時代の大大名家の奥向の別称でもある。

初代将軍・徳川家康の時代から、
江戸城に「大奥」と呼ばれる区画は存在していた。

しかし当時は、
政治を行う場である「表」と、
城主とその家族の私的な生活の場である
「奥」の境界が存在していなかった。

この境界が江戸城に現れたのは、
元和4年(1618年)に
2代将軍・徳川秀忠が「壁書」を制定した時である。

以後、
本丸は幕府政庁の「表」、
将軍が政務を執る「中奥(奥)」、
将軍の私邸「大奥」に区分された。

3代将軍徳川家光乳母・春日局によって
組織的な整備がなされていき、
こうして現在知られる形の大奥に整えられていった。

三代将軍の徳川家光が
男にしか
まったく興味を示さないので

このままでは
お世継ぎが絶えてしまうと危惧した

乳母の春日局が
女だらけの
大奥を整備したと言われていますね❗

江戸城  大奥

2020/01/26

吉野家 新メニュー ねぎだく

1月26日
日曜日

吉野家
新メニューねぎだく

吉野家
東京の築地本店では
昔から提供されていた
ねぎだくが
いよいよ全国発売になった。

牛丼ねぎだく頭の大盛
Bセット

玉ねぎどっさりで
血液サラサラやで❗

吉野家  新メニュー  ねぎだく