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2019/05/15

百舌鳥・古市古墳群

令和元年
5月15日
水曜日

百舌鳥・古市古墳群

大阪の百舌鳥・古市古墳群が
世界遺産に登録されそうですね。

大学時代
ここで言われる
古市エリアに住んでいたので
古墳は付近にいくつも点在していました。

百舌鳥・古市古墳群とは

百舌鳥・古市古墳群は、
大阪の南部、堺市、羽曳野市、藤井寺市の
3市にまたがる巨大古墳群であり、
堺市の「百舌鳥」と
羽曳野市・藤井寺市の「古市」の
2つのエリアに分かれながらも、
一体性・連続性をもっています。

この古墳群では、
4世紀後半から6世紀前半にかけて
200基を超える古墳が築造されましたが、
現在でも89基の古墳が残っています。

最大の古墳は
仁徳天皇陵古墳(墳丘長486m・国内第1位)で、
応神(おうじん)天皇陵古墳(同425m・2位)、
履中(りちゅう)天皇陵古墳(同365m・3位)、
ニサンザイ古墳(同300m・7位)、
仲姫命(なかつひめのみこと)陵古墳(同290m・9位)、仲哀(ちゅうあい)天皇陵古墳(同245m)が
これに続きます。

こうした墳丘長が
200mを超える古墳は全国に40基近くありますが、
うち11基は百舌鳥・古市古墳群に存在し、
これほど巨大前方後円墳が集中している地域は
国内でも他に例がありません。

こうした巨大な古墳の多くは、
複数の「濠(ほり)」を有し、
その周囲に「陪塚(ばいちょう)」と呼ばれる
中小の古墳を伴っています。

また、墳形別にみると、
前方後円墳が43基(うち帆立貝形墳12基)、
円墳が24基、方墳が22基あります。

百舌鳥・古市古墳群

2019/05/15

聖徳太子

令和元年
5月15日
水曜日

聖徳太子

593年5月15日
(推古天皇元年4月10日)

聖徳太子が推古天皇の摂政に就任。

推古天皇のもと、
蘇我馬子と協調して政治を行い、
国際的緊張のなかで遣隋使を派遣するなど
進んでいる中国の文化・制度を学び
冠位十二階や十七条憲法を定めるなど
大王(天皇)や王族を中心とした
中央集権国家体制の確立を図った他、
仏教を取り入れ神道とともに
厚く信仰し興隆につとめたとされる。

聖徳太子という名称は
死没129年後天平勝宝3年(751年)に編纂された
『懐風藻』が初出と言われる。

そして、
平安時代に成立した史書である
『日本三代実録』『大鏡』『東大寺要録』『水鏡』等は
いずれも「聖徳太子」と記載し、
「厩戸」「豐聰耳」などの表記は見えないため、
遅くともこの時期には「聖徳太子」の名が
一般的な名称となっていたことが伺える。

713年-717年頃の成立とされる
『播磨国風土記』印南郡大國里条にある
生石神社の「石の宝殿」についての記述に、

「池之原 原南有作石 形如屋
長二丈 廣一丈五尺 高亦如之 名號曰 大石 傳云 聖徳王御世 厩戸 弓削大連 守屋 所造之石也」
(原の南に作石あり。形、屋の如し。

長さ二丈(つえ)、廣さ一丈五尺(さか、尺または咫)、高さもかくの如し。

名號を大石といふ。

傳へていへらく、聖徳の王の御世、
弓削の大連の造れる石なり)とあり、
「弓削の大連」は物部守屋、
「聖徳の王(聖徳王)」は厩戸皇子と解釈する説もある。

また、
大宝令の注釈書『古記』(天平10年、738年頃)には
上宮太子の諡号を聖徳王としたとある。

聖徳太子

2019/05/14

紀尾井坂の変

令和元年
5月14日
火曜日

紀尾井坂の変

1878年(明治11年)5月14日

内務卿
大久保利通が暗殺される。
(紀尾井坂の変)

紀尾井坂の変(きおいざかのへん)は、
1878年(明治11年)5月14日に、
内務卿大久保利通が
東京府麹町区麹町紀尾井町清水谷
(現在の東京都千代田区紀尾井町清水谷)で
不平士族6名によって暗殺された事件である。

「紀尾井坂事件」
「大久保利通暗殺事件」ともいう。

紀尾井坂の変