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2020/02/14

常栄寺 雪舟庭

2月14日
金曜日
バレンタインデー

常栄寺 雪舟庭

総会旅行で行った所を紹介しています。

常栄寺(じょうえいじ)は、
山口県山口市宮野下平野にある臨済宗東福寺派の寺院。

山号は香山。

後庭は雪舟等楊の作と伝えられ、
「常栄寺庭園」(通称:雪舟庭)として、
国の史跡および名勝に指定されている。

元は安芸国吉田(現在の広島県安芸高田市)にあり、
永禄6年(1563年)に
毛利元就が息子隆元の急逝を嘆き、
その菩提を弔うために竺雲恵心を開山として創建された。

隆元の死は京都にも伝わり、
翌年正親町天皇から勅額を与えられた。

関ヶ原の戦い後、
毛利氏が長州藩に移封させられると、
山口にあった国清寺(大内盛見の菩提寺)を接収して
常栄寺とした。

ところが、
文久3年(1863年)に
長州藩が萩城から山口政事堂に移転した際に、
萩にあった洞春寺(元就の菩提寺、
こちらも元は安芸国吉田にあった)を移転させ、
常栄寺を隆元夫人尾崎局(妙寿大姉)の菩提寺であった
妙寿寺に移された。

現在の建物は
大正の火災後に
昭和6年(1931年)に再建されたものである。

常栄寺での僧堂開単は
昭和17年(1942年)、関雄峰のときである。

現在地は
元は大内氏が大内政弘別邸跡に創建した
妙喜寺に由来している。

大内政弘は
当時山口に滞在していた雪舟等楊に対して
庭園の造営を依頼し、
雪舟は寺の北側の後庭を造営したと伝えられている。

これが後世に知られる
「雪舟庭(せっしゅうてい)」である。

その後、大内氏が没落すると、
毛利氏はここを山口出身であった尾崎局の菩提寺とし、
寺名も妙寿寺と改名した。

更に常栄寺の移転によって再度改名することになった。

この間、庭園はそのまま維持され続けた。

雪舟が造営した庭園は
枯山水を用いた池泉回遊式庭園で、
寺に面する南側以外の三方を
林地で囲んだ小谷地に築造され、
前に心字池、東北には枯滝が設けられている。

また、立石の手法も独特のもので
室町時代の庭園の姿を今日に遺している。

また、
江戸時代に雲谷等益が描いた
「絹本墨画淡彩雪舟等楊像」が
山口県の有形文化財に指定されている。

また、
明治天皇山口市行幸(明治18年7月)の際に
宿泊された「明治天皇宿泊の間」は、
昭和42年(1967年)に当山に移築され現存する。

常栄寺  雪舟庭

2020/02/14

瑠璃光寺

2月14日
金曜日
バレンタインデー

瑠璃光寺

総会旅行で行った所を紹介しています。

瑠璃光寺(るりこうじ)は、
山口市香山町にある曹洞宗の寺院。

国宝の五重塔を中心として、
境内は香山公園と呼ばれ、
桜や梅の名所にもなっている。

大内氏全盛期の大内文化を伝える寺院であり、
「西の京・山口」を代表する観光名所となっている。

香山墓所は「毛利家墓所」のうちの一つとして
国の史跡に指定されている。

室町時代、
大内氏25代の大内義弘が
現在の場所に香積寺を建立したが、
義弘は応永6年(1399年)に応永の乱を起こし
足利義満に敗れて戦死する。

義弘の弟である
26代大内盛見が兄を弔うため
ここに五重塔の建設を開始したが、
盛見自身も九州の少弐氏・大友氏との戦いで
永享3年(1431年)に戦死する。

五重塔は
その後嘉吉2年(1442年)頃に完成した。

陶氏の7代当主陶弘房の死後、
弘房の夫人が夫を弔うために
文明3年(1471年)建立した。

当初は安養寺と呼ばれ、
現在の山口市仁保高野にあったが、
明応元年(1492年)に瑠璃光寺と改められた。

戸幕府成立後、
萩に依った毛利輝元が
慶長9年(1604年)に香積寺を萩に引寺したため、
跡地に元禄3年(1690年)、
仁保瑠璃光寺を移転した。

これが現在の瑠璃光寺である。

瑠璃光寺

2020/02/14

バレンタインデー

2月14日
金曜日

バレンタインデー

バレンタインデー(英: Valentine's Day)、
または、聖バレンタインデー
(セイントバレンタインデー、英: St. Valentine's Day)は、2月14日に祝われ、
世界各地でカップルの愛の誓いの日とされる。

元々
269年にローマ皇帝の迫害下で殉教した
聖ウァレンティヌス(テルニのバレンタイン)に
由来する記念日だと、
主に西方教会の広がる地域において、
かつて伝えられていた。

バレンタインデーの歴史は、
ローマ帝国の時代にさかのぼるとされる。

当時、ローマでは、
2月14日は女神・ユーノーの祝日だった。

ユーノーはすべての神々の女王であり、
家庭と結婚の神でもある。

翌2月15日は、
豊年を祈願する(清めの祭りでもある)
ルペルカリア祭の始まる日であった。

当時
若い男たちと女たちは生活が別だった。

祭りの前日、
女たちは紙に名前を書いた札を
桶の中に入れることになっていた。

翌日、
男たちは桶から札を1枚ひいた。

ひいた男と札の名の女は、
祭りの間パートナーとして一緒にいることと
定められていた。

そして多くのパートナーたちは
そのまま恋に落ち、そして結婚した。

ローマ帝国皇帝・クラウディウス2世は、
愛する人を故郷に残した兵士がいると
士気が下がるという理由で、
兵士たちの婚姻を禁止したと言われている。

キリスト教の司祭だった
ウァレンティヌス(バレンタイン)は、
婚姻を禁止されて嘆き悲しむ兵士たちを憐れみ、
彼らのために内緒で結婚式を行っていたが、
やがてその噂が皇帝の耳に入り、
怒った皇帝は二度とそのような行為をしないよう
ウァレンティヌスに命令した。

しかし、
ウァレンティヌスは毅然として
皇帝の命令に屈しなかったため、
最終的に彼は処刑されたとされる。

彼の処刑の日は、
ユーノーの祭日であり、
ルペルカリア祭の前日である
2月14日があえて選ばれた。

ウァレンティヌスは
ルペルカリア祭に捧げる生贄とされたという。

このため
キリスト教徒にとっても、
この日は祭日となり、
恋人たちの日となったというのが一般論である。

バレンタインデー