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2019/06/20

新田義貞の挙兵

6月20日
木曜日

新田義貞の挙兵

1333年6月20日
(元弘3年/正慶2年5月8日)

新田義貞が上野国で北条氏討伐の旗揚げ。

河内源氏義国流新田氏本宗家の8代目棟梁。

父は新田朝氏、母は不詳。

官位は正四位下、左近衛中将。

明治15年(1882年)8月7日贈正一位。

鎌倉末期から南北朝の混乱の時代にあって、
足利氏と並び武家を統率する力のある家系であった
新田家の当主で、足利尊氏の対抗馬であり、
好敵手でもあった。

ただし、
鎌倉時代後期の新田家は
足利家に対して従属関係にあり、
延元の乱以前の義貞は尊氏の指揮下の
一部将であったとする研究もある。

また、
軍記物語『太平記』においては、
前半の主人公の一人とも言える存在である。

鎌倉幕府を攻撃して事実上滅亡に追い込み、
後醍醐天皇による
建武新政樹立の立役者の一人となった。

しかし、建武新政樹立後、
同じく倒幕の貢献者の一人である足利尊氏と対立し、
尊氏が建武政権に反旗を翻すと、
後醍醐天皇により事実上の
官軍総大将に任命されてこれに対抗した。

これにより各地で転戦したものの、
箱根や湊川での合戦で敗北し、
のちに後醍醐天皇の息子の
恒良親王、尊良親王を奉じて北陸に赴き、
越前国を拠点として活動するが、
最期は越前藤島で戦死した。

東国の一御家人から始まり、
鎌倉幕府を滅ぼして中央へと進出し、
その功績から来る重圧に耐えながらも
南朝の総大将として忠節を尽くし続けた生涯だった。

死後、
江戸時代に義貞が着用していた兜が偶然見つかり、
福井藩主松平光通は
兜が発見された場所に新田塚を建てた。

明治時代、福井知藩事・松平茂昭は
新田義貞のために新田塚に祠を建て、
のち義貞を主祭神する藤島神社となり、
建武中興十五社の一つに列せられた。

新田義貞の挙兵

2019/06/19

第29回 浜山校区ふれあい夏祭り

6月19日
水曜日

告知

第29回
浜山校区ふれあい夏祭り

7月13日
土曜日
午後5時~

今年で
もう29回を迎えますので
当初は
子供だった人たちが
近年は
その子供たちが親になって
子供を連れて来てくれるようにもなりました。

例年は夏休みでの開催ですが
他との兼ね合いや諸事情により
今年は夏休み前の開催になりました。

消防団が
昨年と同様に
水餃子を販売します❗

我が
KOBEおーるエンジョイ倶楽部は
生ビールと海鮮塩焼きそばを販売します❗

ステージの方も
松村組の太鼓
清盛隊など盛りだくさん❗

ぜひ
お誘い合わせの上お越し下さい❗
多数のご来場をお待ちしております❗

第29回  浜山校区ふれあい夏祭り

2019/06/19

元号の日

6月19日
水曜日

元号の日

645年6月19日

日本初の元号「大化」が定められた。

大化(たいか)は、日本で最初の元号。

白雉の前。

西暦でいう645年から650年までの期間を指す。

『日本書紀』によれば
「天豊財重日足姫天皇の四年を改めて大化元年とす」
と記され、
皇極天皇4年6月19日
(ユリウス暦645年7月17日)の
孝徳天皇即位のときから実施された。

この建元により、日本で元号が使われ始めた。

大化6年2月15日
(ユリウス暦650年3月22日)白雉に改元。

645年(大化元年)

古人大兄皇子を中大兄皇子(天智天皇)が攻め殺す。

東国などの国司に戸籍の作成、田の調査を命じる。

難波長柄豊碕宮へ遷都。

646年(大化2年)

改新の詔(大化の改新の詔)、薄葬令を発する。

高向玄理を新羅に派遣、
新羅から任那への調を廃止させる。

647年(大化3年)

七色十三階の官位が製定される。

648年(大化4年)

磐舟柵を造る。

649年(大化5年)

官位十九階が制定される。

蘇我倉山田石川麻呂、
謀反の疑いをかけられ山田寺で自殺する。

石川麻呂を讒言した蘇我日向を大宰府に左遷。

元号の日