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2019/06/27

ちらし寿司の日

6月27日
木曜日

ちらし寿司の日

株式会社あじかんが制定。

岡山のちらし寿司
「ばら寿司」が生まれるきっかけとなった
備前岡山藩主・池田光政の命日。

岡山のばら寿司の誕生には、
質素倹約を奨励した
備前岡山藩藩主の池田光政が、
汁物以外に副食を一品に制限する
「一汁一菜令」を布告したことが
背景にあると言われている。

これは特徴的な
寿司の制作過程に反映されており、
当時は寿司種を器(寿司桶)の底に敷き、
それらを酢飯で覆い隠すことで粗食を装い、
食事の直前に器をひっくり返して食卓を飾ったという。

池田光政の命日である
6月27日は、
「ちらし寿司の日」として
日本記念日協会に登録されている。

ばらずしが出来た日でもなく
池田光政の命日って
ほぼ関係ない日ですな😅

ちらし寿司の日

2019/06/26

自転車屋の生き物歳時記 ハグロトンボ

6月26日
水曜日

自転車屋の生き物歳時記

ハグロトンボ

先日のトレッキングにて
弁天大滝の手前の河原で昼食を取ったが
ハグロトンボが何匹も飛んでいた。

河原に来るとこいつに会えるな。

ハグロトンボ(羽黒蜻蛉、Calopteryx atrata)は、
カワトンボ科のトンボ。

別名ホソホソトンボ。

東アジア(日本、朝鮮半島、中国、ロシア)、
北米に分布する。

日本国内では本州・四国・九州に分布する。

成虫の体長は 57-67mm、後翅長 35-44mm ほどで、
トンボとしてはやや大型。

雌の方が雄より若干大きいが、大差はない。

翅が黒いのが特徴で、斑紋はなく、
雄は体色が全体的に黒く緑色の金属光沢があるのに対し、雌は黒褐色である。

他のトンボのように
素早く飛翔したりホバリングしたりせず、
チョウのようにひらひらと舞うように羽ばたく。

その際、パタタタ……と翅が小さな音を立てる。

どこかに留まって羽根を休める際も
チョウのように羽根を立てた状態で、
四枚の羽根を重ねて閉じるという特徴がある。

幼虫(ヤゴ)は体長22~26mmほどで、
体色は淡い褐色である。

成虫は5~10月頃まで見られ、とくに7~8月に多い。

主に平地から低山地のヨシなどの挺水植物や、
エビモ、バイカモなどの沈水植物などが茂る
緩やかな流れに生息する。

幼虫は、おもに夜半から早朝にかけて、
挺水植物などに定位して6~7月頃に羽化する。

羽化後の若い個体は薄暗いところを好み、
水域から離れて林の中で生活するが、
成熟すると再び水域に戻り、
明るい水辺の石や植物などに止まり縄張りを張る。

交尾後、雌は水面近くの水中植物に産卵する。

自転車屋の生き物歳時記  ハグロトンボ

2019/06/26

福原京

6月26日
水曜日

福原京

1180年6月25日
(治承4年6月2日)

平清盛が安徳天皇を奉じて福原京に遷都。

福原京(ふくはらきょう)は、
平安時代末期の治承4年(1180年)、
計画のみに終った和田京に続いて、
平清盛の主導で造営が進められた日本の首都の通称。

場所は現在の
兵庫県神戸市中央区から兵庫区北部にあたり、
平氏の拠点のひとつである貿易港の
大輪田泊(現在の兵庫港・神戸港西部)に
人工島の経が島(経ヶ島)を築き
整備拡張した港を見下ろす
山麓に都を置くことが計画された。

平清盛は、
高倉上皇と平家一門の反対を押し切って
遷都を強行したが、
それは宋との貿易拡大によって
海洋国家の樹立を目指したためともいわれ、
都市整備が進めば平氏政権による
「福原幕府」のようなものになったとも言われる。

のちに
福原京の建造物群は源義仲によって全て焼き払われた。

治承4年6月2日(1180年6月26日)、
京都から摂津国の福原へ
安徳天皇・高倉上皇・後白河法皇の行幸が行なわれ、
ここに行宮が置かれた。

そして平氏政権は
福原に隣接する和田(輪田)の地に
「和田京」の造営を計画した。

和田は現在の
兵庫区南部から長田区にまたがる地域にあたる。

当初
平安京と同様の条坊制による都市を建設しようとしたが、和田は平地が少なく手狭だったため、
すぐにこの計画は行き詰まってしまった。

そこで同じ摂津国の昆陽野(兵庫県伊丹市)、
更には播磨国印南野(兵庫県加古川市)に
新しい京を造営する話が持ち上がったが、
どちらの話も立ち消えとなり、
7月には福原をしばらく皇居とし、
道路を開通させて親平氏派の一部の人々に限り
宅地が与えられることになった。

しかし当時幼い安徳天皇に代わり
院政を行なっていた高倉上皇は
平安京(京都)を放棄せず、
福原には離宮を建て、
内裏や八省院は必要ないとした。

これに対して清盛は、
内裏は移建せず、
11月の新嘗祭までに私的に皇居を造営し、
2年後には八省院などの役所もつくるという方針で構えた。

そして
11月には皇居に似せて造られた
清盛の私邸が天皇に提供され、
17日(12月5日)から20日(8日)に
新嘗祭の五節のみが行なわれると
(新嘗祭自体は京都で行なわれた)、
23日(11日)には京都への還幸となった。

京都への還幸は
源氏の挙兵に対応するため
清盛が決断したといわれている。

和田京が実現していれば、
オイラの自宅周辺も都やった訳ですがね❗

福原京