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2019/08/04

豊臣秀吉の天下統一

8月4日
日曜日

豊臣秀吉の天下統一

1590年8月4日
(天正18年7月5日)

北条氏直が豊臣秀吉に降伏し、
小田原城が開城。

小田原征伐完了により
秀吉の天下統一が完成。

小田原征伐(おだわらせいばつ)は、
天正18年(1590年)に
豊臣秀吉が
後北条氏を征伐し降した歴史事象・戦役。

後北条氏が秀吉の沼田領裁定の一部について
武力をもっての履行を
惣無事令違反とみなされたことを
きっかけに起こった戦いである。

後陽成天皇は
秀吉に後北条氏討伐の勅書を発しなかったものの、
遠征を前に秀吉に節刀を授けており、
関白であった秀吉は、天皇の施策遂行者として臨んだ。

ここでは
小田原城の攻囲戦だけでなく、
並行して行われた後北条氏領土の攻略戦も、
この戦役に含むものとする。

豊臣秀吉の天下統一

2019/08/03

ハモの日

8月3日
土曜日

ハモの日

鱧(はも)の関西での呼び方「はみ」から、
「は(8)み(3)」の語呂合わせ。

ハモ食べたい❗

他にも
ハチミツの日
ハサミの日
司法書士の日
ホウ酸処理の日
共創する未来の日 などがあります。

ハモの日

2019/08/03

壬申の乱(じんしんのらん)

8月3日
土曜日

壬申の乱(じんしんのらん)

672年8月3日
(弘文天皇元年/天武天皇元年7月2日)

美濃に逃れた大海人皇子(後の天武天皇)が
大友皇子(弘文天皇)に対し挙兵。

壬申の乱(じんしんのらん)は、
天武天皇元年6月24日 - 7月23日
(ユリウス暦672年7月24日 - 8月21日[)
に起こった古代日本最大の内乱である。

660年代後半、
都を近江宮へ移していた天智天皇は
同母弟の大海人皇子を皇太子
(『日本書紀』には「皇太弟」とある。

また、
大海人皇子の立太子そのものを
『日本書紀』の創作とする説もある)に立てていたが、
天智天皇10年10月17日(671年11月23日)、自身の皇子である大友皇子を
太政大臣につけて後継とする意思を見せはじめた。

その後、天智天皇は病に臥せる。

大海人皇子は大友皇子を皇太子として推挙し、
自ら出家を申し出、
吉野宮(現在の奈良県吉野)に下った。

天智天皇は大海人皇子の申し出を受け入れた。

12月3日(672年1月7日)、
近江宮の近隣山科において天智天皇が46歳で崩御した。

大友皇子が跡を継ぐが、
年齢はまだ24歳に過ぎなかった。

大海人皇子は
天武天皇元年6月24日(7月24日)に
吉野を出立した。

まず、名張に入り駅家を焼いたが、
名張郡司は出兵を拒否した。

大海人皇子は
美濃、伊勢、伊賀、熊野や
その他の豪族の信を得ることに成功した。

続いて伊賀に入り、
ここでは阿拝郡司(現在の伊賀市北部)が
兵約500で参戦した。

そして積殖(つみえ、現在の伊賀市柘植)で
長男の高市皇子の軍と合流した
(鈴鹿関で合流したとする説もある)。

さらに伊勢国でも郡司の協力で兵を得ることに成功し、
美濃へ向かった。

美濃では
大海人皇子の指示を受けて多品治が既に兵を興しており、不破の道を封鎖した。

これにより皇子は
東海道、東山道の諸国から
兵を動員することができるようになった。

美濃に入り、
東国からの兵力を集めた大海人皇子は
7月2日(7月31日)に
軍勢を二手にわけて大和と近江の二方面に送り出した。

近江朝廷の大友皇子側は
東国と吉備、筑紫(九州)に兵力動員を命じる
使者を派遣したが、
東国の使者は大海人皇子側の部隊に阻まれ、
吉備と筑紫では現地の総領を動かすことができなかった。

特に筑紫では、
筑紫率の栗隈王が外国に備えることを理由に
出兵を断ったのだが、
大友皇子はあらかじめ使者の佐伯男に、
断られた時は栗隈王を暗殺するよう命じていた。が、
栗隈王の子の美努王、武家王が帯剣して傍にいたため、
暗殺できなかった。

それでも近江朝廷は、
近い諸国から兵力を集めることができた。

大和では大海人皇子が去ったあと、
近江朝が倭京(飛鳥の古い都)に兵を集めていたが、
大伴吹負が挙兵してその部隊の指揮権を奪取した。

吹負はこのあと
西と北から来襲する近江朝の軍と激戦を繰り広げた。

この方面では近江朝の方が優勢で、
吹負の軍はたびたび敗走したが、
吹負は繰り返し軍を再結集して敵を撃退した。

やがて紀阿閉麻呂が指揮する
美濃からの援軍が到着して、吹負の窮境を救った。

近江朝の軍は美濃にも向かったが、
指導部の足並みの乱れから前進が滞った。

大海人皇子方と近江方を区別するため
「金」という合言葉を用いた。

村国男依らに率いられて
直進した大海人皇子側の部隊は、
7月7日(8月8日)に息長の横河で戦端を開き、
以後連戦連勝して箸墓での闘いでの勝利を経て
進撃を続けた。

7月22日(8月20日)に
瀬田橋の戦い(滋賀県大津市唐橋町)で
近江朝廷軍が大敗すると、
翌7月23日(8月21日)に
大友皇子が首を吊って自決し、乱は収束した。

美濃での戦いの前に、
高市郡に進軍の際、
「高市社の事代主と身狭社に居る生霊神」が神懸り
「神日本磐余彦天皇の陵に、馬及び種々の兵器を奉れ」と言いそうすせれば大海人皇子を護ると神託をなした。

翌天武天皇2年(673年)2月、
大海人皇子は飛鳥浄御原宮を造って即位した。

近江朝廷が滅び、
再び都は飛鳥(奈良県高市郡明日香村)に
移されることになった。

また論功行賞と秩序回復のため、
新たな制度の構築、すなわち服制の改定、
八色の姓の制定、冠位制度の改定などが行われた。

天武天皇は
天智天皇よりもさらに
中央集権制を進めていったのである。

壬申の乱(じんしんのらん)