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2020/05/24

朝倉義景討伐

5月24日
日曜日

朝倉義景討伐

1570年5月24日
(元亀元年4月20日)

織田信長が、
越前の朝倉義景討伐のため
3万騎を率いて京都を発つ。

朝倉 義景(あさくら よしかげ) は、
戦国時代の武将。

越前国の戦国大名。

越前朝倉氏第11代(最後)の当主。

永禄11年(1568年)8月

若狭守護・武田氏の内紛に乗じて介入し、
当主である武田元明を保護という名目で
小浜から連れ去り越前一乗谷に軟禁し、
若狭も支配下に置いた(『国吉城籠城記』)。

ただし
武田家臣の粟屋勝久や熊谷氏などは
義景に従属することを拒否して頑強に抵抗し、
若狭を完全に平定したとは言い難い。

この若狭侵攻は
当時上洛作戦を展開していた
織田信長と浅井長政の援護が目的であったとの説もある。

しかし義景は、
次第に政務を一族の朝倉景鏡や朝倉景健らに任せて、
自らは遊興に耽るようになったと言われている。

永禄11年(1568年)9月

織田信長は足利義昭を奉じて上洛した。

上洛した信長は義昭を将軍とし、
さらに義景に対して義昭の命令として
2度にわたって上洛を命じるが、義景は拒否する。

これは
朝倉家が織田家に従うことを嫌ったためと、
上洛することで朝倉軍が長期間に渡って
本国・越前を留守にする不安から拒否したとされ、
また
信長も越前は織田領である
美濃と京都間に突き出された槍という位置から
義景を服属させる必要があったためとされる。

このため
永禄13年(1570年)4月20日  

義景に叛意ありとして
越前出兵の口実を与えることになり、
義景は
織田信長・徳川家康の連合軍に攻められることになる。

連合軍の攻勢の前に
旧若狭武田家臣の粟屋氏・熊谷氏らは信長に降伏した。

また
支城である天筒山城と金ヶ崎城が
織田軍の攻勢の前に落城した。

義景は後詰のために
浅水(現在の福井市)まで出兵したが、
居城の一乗谷で騒動が起こったとして引き返した。

だが
浅井長政が信長を裏切って織田軍の背後を襲ったため、
信長は京都に撤退した。

このとき、
朝倉軍は織田軍を追撃したが、
織田軍の殿を率いた木下秀吉に迎撃され、
信長をはじめとする有力武将を取り逃がした
(『革島文書』『信長公記』)。

このため、
信長に再挙の機会を与えることになった。

朝倉義景討伐

2020/05/23

恋文の日/ラブレターの日

5月23日
土曜日

恋文の日/ラブレターの日

松竹が制定。

5月23日の
「523」が「こいぶみ」と読めることと、
浅田次郎原作の
映画『ラブ・レター』の公開初日であったことから。

今は
メールやLINEの時代やけど
ラブレター
なんて書くのかね⁉️

恋文の日/ラブレターの日

2020/05/23

以仁王の平家追討令旨

5月23日
土曜日

以仁王の平家追討令旨

1180年(治承4年4月27日)

伊豆・蛭ヶ小島に流されていた
源頼朝が、
以仁王の平家追討令旨を伝えられる。

治承4年(1180年)、
後白河法皇の皇子である
以仁王が平家追討を命ずる令旨を諸国の源氏に発した。

4月27日、
伊豆国の頼朝にも、叔父・源行家より令旨が届けられる。

以仁王は
源頼政らと共に宇治で敗死するが、
頼朝は動かずしばらく事態を静観していた。

しかし
平家が令旨を受けた諸国の源氏追討を企て、
自身が危機の中にあることを悟った頼朝は
挙兵を決意すると、
坂東の各豪族に挙兵の協力を呼びかけた。

最初の標的は
伊豆国目代・山木兼隆と定められ、
治承4年(1180年)8月17日、
頼朝の命で北条時政らが
韮山にある兼隆の目代屋敷を襲撃して兼隆を討ち取った。

19日、
頼朝は伊豆国において最初の政治行為を行った。

伊豆を制圧した頼朝は相模国土肥郷へ向かう。

頼朝らは本拠地三浦を発した
三浦一族と合流する予定であったが、
三浦一族が大雨により増水した酒匂川で
足止めを食ったため合流できず、
その前の8月23日に
真鶴付近で石橋山の戦いに突入することなってしまった。

頼朝軍三百騎は
平家方の大庭景親、伊東祐親ら三千余騎と戦って敗北し、土肥実平ら僅かな従者と共に山中へ逃れた。

数日間の山中逃亡の後、
死を逃れた頼朝は、
8月28日に真鶴岬(現在の岩海水浴場)から
船で安房国へ脱出した。

治承4年(1180年)8月29日、
安房国平北郡猟島へ上陸した頼朝は、
房総に勢力を持つ
上総広常と千葉常胤に加勢を要請した。

頼朝は9月13日に安房国を出た。

その後、
下総国府で千葉一族と合流、
広常が大軍を率いて参上し、
上総・千葉両氏を勢力に加えた頼朝は
10月2日
太井・隅田の両河を渡る。

武蔵国に入ると足立遠元、葛西清重を加えた。

葛西清重の説得によって
同じ秩父氏一族である
畠山重忠、河越重頼、江戸重長らも
頼朝に従うことになった。

10月6日、
かつて父・義朝と兄・義平の住んだ鎌倉へ入る。  

鎌倉は
後の鎌倉幕府の本拠地として、
発展を遂げることとなる。

以仁王の平家追討令旨