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2020/06/05

芒種(ぼうしゅ)

6月5日
金曜日

芒種(ぼうしゅ)

二十四節気の一つ

芒種(ぼうしゅ)は、
二十四節気の第9。

五月節(旧暦4月後半から5月前半)。

現在広まっている定気法では
太陽黄経が75度のときで6月6日ごろ。

暦ではそれが起こる日だが、
天文学ではその瞬間とする。

恒気法では
冬至から11/24年(167.40日目で6月7日ごろ)。

期間としての意味もあり、
この日から、次の節気の夏至前日までである。

芒(のぎ 、イネ科植物の果実を包む穎(えい)
すなわち稲でいう籾殻にあるとげのような突起)
を持った植物の種をまくころ。

『暦便覧』には
「芒(のぎ)ある穀類、稼種する時なり」
と記されている。

実際には、現在の種まきはこれよりも早い。

西日本では梅雨入りのころ。

沖縄県では
小満から芒種が梅雨の時期に当たり、
梅雨のことを沖縄方言で
「小満芒種(すーまんぼーすー)」と言う。

今年は閏年なので
一日早いと言う事ですな‼️

芒種(ぼうしゅ)

2020/06/04

虫の日

6月4日
木曜日

虫の日

「カブトムシ自然王国」を宣言している
福島県常葉町(現:田村市常葉町)の
常葉町振興公社(現:田村市常葉振興公社)が制定。

「むし」の語呂合せ。

小学校の時は
昆虫博士と呼ばれていた‼️

昆虫大好き少年やったわ‼️

虫の日

2020/06/04

豊臣秀頼 生存説

6月4日
木曜日

豊臣秀頼生存説

1615年6月4日
(元和元年5月8日)

大坂夏の陣

豊臣秀頼と淀殿が自刃し豊臣氏が滅亡。

大阪が落城した際、
秀頼達が絶命する瞬間を目撃した者がおらず、
死体も発見されなかったことから生存説がある。

『日本伝奇伝説大辞典』の星野昌三による
「豊臣秀頼」の項などで以下のとおり記述されているが、どれも伝説的な逸話である。

平戸にいた
リチャード・コックスの
東インド会社への手紙(日記にも記述あり)では
薩摩・琉球に逃げた、
『日本西教史』(ジャン・クラッセ)では
「一説には母と妻とを伴なひ辺遇の一大諸侯に寄寓し、
兵を募り再挙を謀ると云ひて一定せず」とある。

当時の京に流行した
「花のようなる秀頼様を、鬼のようなる真田が連れて、
退きも退いたよ鹿児島へ」という童謡が
真田信之のいた松代でも聞こえたと
『幸村君伝記』にも記載されており、
生存の噂が流布していた。

『採要録』には
薩摩国谷山に元和初め浪士が住み着き、
国主からの家に住んでいた。

酒好きでいつも酔って、
あちこち寝転がることから
「谷山の酔喰(えいぐら)」と呼ばれていた。

国主から手出し禁止を命じられ、
住民は密かに秀頼公ではないかと噂していたという。

末に「右ハ分明ナラザレドモ、土民ノ伝フ言ヲ記シ置クモノナリ。信ズルニモアラズ。捨ツルニモ非ズ。後人ノ考モアルベシ」と記述されている。

鹿児島市下福元町に
伝秀頼墓と伝わる塔があり、
付近の木之下川に伝家臣墓2基もあるという。

昭和42年(1967年)から同43年(1968年)に鹿児島県の郷土史家・後藤武夫は、
秀頼は大坂城落城後、国松と共に九州に逃れて
日出藩主・木下延俊の庇護を受け、
宗連と号し45歳まで生き、
国松は延俊の養子(表向きは実子(次男)扱い)となり
長じて立石領初代領主・木下延由となった
とする説を唱えた。

旧日出藩主木下家18世当主である
木下俊煕は著書『秀頼は薩摩で生きていた』
(新峰社、1968年)で、秀頼は宗連といい、
日出藩木下家が落ち延びた
秀頼と国松を密かに庇護したこと、
それを疑った幕府が松平忠直を隠密として
配流したという内容の生存説を出した。

前川和彦は
霞会館で偶然面会した木下から聞いた
秀頼逃亡説を追加取材し、 『豊臣家存続の謎』(日本文芸社、1981年)を著わした。

豊臣正統14世を自称する
木場貞幹は『歴史と旅』
昭和58年(1983年)8月臨時増刊号で
「太閤の後裔は亡びず」と題した記事で
口伝の秀頼薩摩亡命とその後を発表している。 

江戸時代の小説
『真田三代記』第178節
「真田幸村、秀頼公を伴ひ薩州へ落る事
並びに島津家由緒の事」では、
幸村主導で大助、長宗我部盛親、後藤又平衞ら
150が夜丑の時抜け穴から誉田に出、
島津家の伊集院刑部、猿沢監物と
兵庫の浦から海路薩摩へ逃げたことになっている。

島原の乱を起こした
天草四郎時貞は
豊臣秀頼の子であるとの説もありますね‼️

豊臣秀頼  生存説