2020/06/03
大坂城天守閣炎上
6月3日
水曜日
大坂城天守閣炎上
1615年6月3日
(慶長20年5月7日)
大坂夏の陣
大坂城天守閣が炎上。
大坂城/大阪城(おおさかじょう)は、
安土桃山時代に摂津国東成郡生玉荘大坂に築かれ、
江戸時代に修築された日本の城。
別称は錦城(きんじょう/金城とも表記)。
「大阪城跡」として国の特別史跡に指定されている。
天守は博物館「大阪城天守閣」となっている。
1598年(慶長3年)に豊臣秀吉が死去
1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いで
石田三成が敗れ、徳川家康によって
東軍への恩賞という形で所領が分配された結果、
220万石の大大名から
摂河泉65万7千400石の一大名に転落した
豊臣氏であったが、
遺児の豊臣秀頼は依然として
豪華絢爛たる大坂城を居城としていた。
しかし、
1614年(慶長19年)に勃発した
大坂冬の陣において、
講和条件として
大坂城は惣構・三の丸・二の丸の破却が取り決められ、
大坂城は内堀と本丸のみを残す裸城にされてしまう。
秀頼は堀の再建を試みたために
講和条件破棄とみなされ、
冬の陣から4か月後の1615年(慶長20年)、
大坂夏の陣で大坂城はついに落城し、
豊臣氏は滅亡した。
画像は
豊臣時代の大坂城の
イメージ画像です。
2020/06/02
裏切りの日
6月2日
火曜日
裏切りの日
1582年(天正10年)の6月2日(旧暦)
本能寺の変で、
織田信長が明智光秀に裏切られて攻められ、
本能寺で自害した。
中国の毛利攻めに難儀している
羽柴秀吉の応援を命じられた明智光秀は、
進軍の途中で道を変更し、
本能寺の織田信長を襲った。
襲撃を知った信長は
近侍の森蘭丸に誰の襲撃か尋ね、
光秀と聴くと「是非もなし」と応えて自害したと、
『信長公記』に伝えられている。
旧暦なので
今日ではないんですけどね😅
歴史学者による最新の解釈では
四国説が有力になってきていて
裏切ったのはむしろ
信長ではないのかってお話です⁉️
2020/06/02
倶利伽羅峠の戦い
6月2日
火曜日
倶利伽羅峠の戦い
1183年6月2日
(寿永2年5月11日)
治承・寿永の乱
倶利伽羅峠の戦い
倶利伽羅峠の戦い
(くりからとうげのたたかい、倶梨伽羅峠の戦い)、
または、砺波山の戦い
(となみやまのたたかい、礪波山の戦い)は、
平安時代末期の
寿永2年5月11日(1183年6月2日)
越中・加賀国の国境にある
砺波山の倶利伽羅峠
(現富山県小矢部市-石川県河北郡津幡町)で
源義仲軍と平維盛率いる平家軍との間で戦われた合戦。
治承・寿永の乱における戦いの一つ。
寿永2年(1183年)4月
平家は
平維盛を総大将とする10万騎の大軍を
北陸道へ差し向けた。
平家軍は
越前国の火打城の戦いで勝利し、
義仲軍は越中国へ後退を余儀なくされる。
5月9日明け方、
加賀国より軍を進め般若野
(はんにゃの、現・富山県高岡市南部から砺波市東部)の地で兵を休めていた平氏軍先遣隊平盛俊の軍が、
木曾義仲軍の先遣隊である
義仲四天王の一人・今井兼平軍に奇襲されて
戦況不利に陥り、平盛俊軍は退却してしまった(般若野の戦い)。
一旦後退した平家軍は、
能登国志雄山(志保山とも。現・宝達山から北に望む一帯の山々)に平通盛、平知度の3万余騎、
加賀国と越中国の国境の砺波山に
平維盛、平行盛、平忠度らの7万余騎の
二手に分かれて陣を敷いた。
5月11日
義仲は源行家、楯親忠の兵を志雄山へ向け牽制させ、
義仲本隊は砺波山へ向かう。
義仲は昼間はさしたる合戦もなく過ごして
平家軍の油断を誘い、
今井兼平の兄で
義仲四天王のもう一人・樋口兼光の一隊を
ひそかに平家軍の背後に回りこませた。
平家軍が寝静まった夜間に、
義仲軍は突如大きな音を立てながら攻撃を仕掛けた。
浮き足立った平家軍は退却しようとするが
退路は樋口兼光に押さえられていた。
大混乱に陥った平家軍7万余騎は
唯一敵が攻め寄せてこない方向へと
我先に逃れようとするが、
そこは倶利伽羅峠の断崖だった。
平家軍は、
将兵が次々に谷底に転落して壊滅した。
平家は、義仲追討軍10万の大半を失い、
平維盛は命からがら京へ逃げ帰った。
この戦いに大勝した
源義仲は京へ向けて進撃を開始し、
同年7月に遂に念願の上洛を果たす。
大軍を失った平家は
もはや防戦のしようがなく、
安徳天皇を伴って京から西国へ落ち延びた。
『源平盛衰記』には、
この攻撃で義仲軍が
数百頭の牛の角に松明をくくりつけて
敵中に向け放つという、
源平合戦の中でも有名な一場面がある。
しかし
この戦術が実際に使われたのかどうかについては
古来史家からは疑問視する意見が多く見られる。
眼前に松明の炎をつきつけられた牛が、
敵中に向かってまっすぐ突進していくとは
考えにくいからである。
そもそもこのくだりは、
中国戦国時代の斉国の武将・田単が用いた
「火牛の計」の故事を下敷きに
後代潤色されたものであると考えられている。
この元祖「火牛の計」は、
角には剣を、尾には松明をくくりつけた牛を放ち、
突進する牛の角の剣が敵兵を次々に刺し殺すなか、
尾の炎が敵陣に燃え移って
大火災を起こすというものである。