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2020/06/01

衣替えの歴史

6月1日
月曜日

衣替えの歴史

平安時代

衣替えの習慣は平安時代の宮中行事から始まった。

中国の風習に倣って
旧暦の4月1日および10月1日に
夏服と冬服を着替えると定め、
これを「更衣(こうい)」と呼んだ。

しかし、
天皇の着替えの役目を持つ女官の職名も更衣と言い、
後に天皇の寝所に奉仕する女官で
女御(にょうご)に次ぐ者を指すようになったので、
民間では更衣とは言わず衣替えと言うようになった。

季節による取り替えは
衣服以外についても、
女房(貴婦人)が手に持つ扇も
冬は桧扇(ひおうぎ=ヒノキ製)、
夏は蝙蝠(かわほり=紙と竹製の扇)と決められていた。

鎌倉時代になると、
更衣は衣服だけでなく
調度品までとり替えることを含むようになった。

江戸時代

江戸時代になると着物の種類が増え、
江戸幕府は
公式に年4回の衣替えでの出仕を制度化した。

武家の制服は、
旧暦の4月1日 - 5月4日が
袷(あわせ=裏地付きの着物)、
5月5日 - 8月末日が
帷子(かたびら=裏地なしの単仕立ての着物)、
9月1日 - 9月8日が袷、
9月9日 - 翌年3月末日が
綿入れ(表布と裏布の間に綿を入れた着物)とされ、 
一般庶民もこれに従った。

明治時代

明治政府は
洋服を役人・軍人・警察官の制服に定め、
夏服と冬服の衣替えの時期も制定した。

明治6年(1873年)1月1日より
新暦(太陽暦)が採用され、
太陽暦6月1日 - 9月30日が夏服、
10月1日から翌年5月31日が冬服と定められた。

やがて、これが学生服に、
次第に一般の人にも定着し、
官公庁・企業・学校が
毎年6月1日と10月1日に衣替えを行うようになった。

衣替えの歴史

2020/06/01

今川氏滅亡

6月1日
月曜日

今川氏滅亡

1569年6月1日
(永禄12年5月17日)

今川氏真が
掛川城を開城して伊豆へと落ち延びる。

戦国大名としての今川氏の滅亡。

今川 氏真(いまがわ うじざね)は、
戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、
戦国大名、文化人。

今川氏12代当主。

父・今川義元が
桶狭間の戦いで織田信長によって討たれ、
その後、今川家の当主を継ぐが
武田信玄と徳川家康による駿河侵攻を受けて敗れ、
戦国大名としての今川家は滅亡した。

その後は同盟者でもあり
妻の早川殿の実家である後北条氏を頼り、
最終的には桶狭間の戦いで
今川家を離反した徳川家康(松平元康)と
和議を結んで臣従し庇護を受けることになった、
氏真以後の今川家の子孫は、
徳川家と関係を持ち続け、
家康の江戸幕府(徳川幕府)で
代々の将軍に仕えて存続した。

京都在住時代の氏真は、
豊臣秀吉あるいは家康から与えられた
所領からの収入によって生活をしていたと
推測されている。

のちの慶長17年(1612年)に、
家康から近江国野洲郡長島村
(現在の滋賀県野洲市長島)の「旧地」
500石を安堵されているが、
この「旧地」の由来や性格ははっきりしていない。

慶長17年4月に
氏真は、郷里の駿府で大御所家康と面会している。

『寛政重修諸家譜』によれば、
氏真の「旧地」が安堵されたのはこの時であり、
また家康は氏真に対して品川に屋敷を与えたという。

氏真はそのまま
子や孫のいる江戸に移住したものと思われ、
慶長18年(1613年)に
長年連れ添った早川殿と死別した。

慶長19年(1615年)12月28日

江戸で死去。享年77。

葬儀は氏真の弟・一月長得が
江戸市谷の萬昌院で行い、同寺に葬られた。

寛文2年(1662年)
 
萬昌院が牛込に移転するのに際し、
氏真の墓は早川殿の墓と共に、
今川家知行地である武蔵国多摩郡井草村
(現在の東京都杉並区今川二丁目)にある
宝珠山観泉寺に移された。

今川氏滅亡

2020/05/31

劇場映画 犬鳴村~恐怖回避ばーじょん~

5月31日
日曜日

OSシネマズ神戸ハーバーランド

犬鳴村
~恐怖回避ばーじょん~

日本には行ってはいけない場所がある。

お客さんは
私を入れて6人でした。

他のシネコンも
だいたい10人前後です。

カップルシート以外は
一つ置きに養生テープが張られて
並んで観賞する事が
出来ないようにしてあります。

カップルでなくても
家族や友人とも並んで観賞したいのだろうから
映画館や劇場はある意味
密になりに行く場所でしょう。

これでは
お客さんは入らないですね😞

こんな客足では
映画館も経営が成り立たない。

密を復活しないと
潰れてしまいますよ😞

劇場映画   犬鳴村~恐怖回避ばーじょん~