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2019/09/23

自転車屋の生き物歳時記 植物編 ヒガンバナ

9月23日
月曜日

秋分の日
お彼岸の中日

自転車屋の生き物歳時記
植物編

ヒガンバナ

お彼岸と言う事でヒガンバナです。

ヒガンバナ(彼岸花、学名 : Lycoris radiata[1])は、
ヒガンバナ科ヒガンバナ属の多年草である。

曼珠沙華
(マンジュシャゲ、またはマンジュシャカ
サンスクリット語 manjusaka の音写)、
学名からリコリス・ラジアータとも呼ばれる。

全草有毒な多年生の球根性植物。

散形花序で6枚の花弁が放射状につく。

道端などに群生し、
日本では9月中旬頃に赤い花をつける。

稀に色素形成異常で白みがかった個体もある。

その姿は独特で、
夏の終わりから秋の初めにかけて、
高さ30~50cmの
枝も葉も節もない花茎が地上に突出し、
その先端に苞に包まれた花序が一つだけ付く。

苞が破れると5~7個前後の花が顔を出す。

花は短い柄があって横を向いて開き、
全体としては全ての花が輪生状に外向きに並ぶ。

花弁は長さ40 mm、幅約5 mmと細長く、
大きく反り返る。

開花終了の後、
晩秋に長さ30~50cmの線形の細い葉を
ロゼット状に出す。

葉は深緑で、艶がある。

葉は冬中は姿が見られるが、
翌春になると枯れてしまい、
秋が近づくまで地表には何も生えてこない。

ヒガンバナは
三倍体(3n = 33)のため不稔性であるが、
変種のコヒガンバナ(Lycoris radiata var. pumila)は
二倍体(2n = 22)で稔性があり、
他の種との交配により多様な園芸品種が作出されている。

日本には北海道から沖縄列島まで見られる。

自生ではなく、
中国大陸から直接ないし間接的に
持ち込まれたものと考えられる。

その経緯については、
稲作の伝来時に土と共に鱗茎が混入してきて
広まったと言われるが、
土に穴を掘る小動物(モグラ、ネズミ等)を避けるために有毒な鱗茎をあえて持ち込み、
畦や土手に植えたと推測する意見もある。

また鱗茎は適切に用いれば薬になり、
また水にさらして
アルカロイド毒を除去すれば救荒食にもなる。

そのような有用植物としての働きを
熟知して運び込まれた可能性もある。

人里に生育し、
田畑の周辺や堤防、墓地などに見られることが多い。

特に田畑の縁に沿って列をなす時には
花時に見事な景観をなす。

湿った場所を好み、
時に水で洗われて球根が露出するのが見られる。

なお、
山間部森林内でも見られる場合があるが、
これはむしろそのような場所がかつては
人里(里山)であった可能性を示す。

日本に存在するヒガンバナは
全て遺伝的に同一であるとされるが、
このことがただちに
中国から伝わった1株の球根から
日本各地に株分けの形で広まったと
考えることはできない。

三倍体であるため
一般に種子で増えることができないため、
持ち込まれた複数のヒガンバナの採取地が偏っていて、
遺伝的に同一であることは充分にあり得るためである。

ただし、
中国には種子繁殖が可能で
遺伝的に多様なコヒガンバナが自生し、
それらが三倍体化することで
いくつかのタイプのヒガンバナが存在する。

それらが
わずかでも導入されている可能性があるため、
先に書かれてるように
国内に分布している全てのヒガンバナが
同一遺伝子を持っているかの確証はない。

全草有毒で、
特に鱗茎にアルカロイド(リコリン、ガランタミン、
セキサニン、ホモリコリン等)を多く含む有毒植物。

経口摂取すると吐き気や下痢を起こし、
ひどい場合には中枢神経の麻痺を起こして
死に至ることもある。

日本では水田の畦や墓地に多く見られ、
人為的に植えられたものと考えられている。

その目的は、
畦の場合はネズミ、モグラ、虫など
田を荒らす動物が
その鱗茎の毒を嫌って避ける(忌避)ように、
墓地の場合は虫除け及び土葬後、
死体が動物によって掘り荒されるのを防ぐためとされる。

モグラは肉食のため
ヒガンバナに無縁という見解もあるが、
エサのミミズがヒガンバナを嫌って
土中に住まないために、
この草の近くにはモグラが来ないともいう。

有毒なので
農産物ではなく年貢の対象外とされたため、
救荒作物として田畑や墓の草取りのついでに栽培された。

鱗茎はデンプンに富む。

有毒成分であるリコリンは水溶性で、
長時間水に曝せば無害化が可能であるため、
救飢植物として
第二次世界大戦中などの戦時や非常時において
食用とされたこともある。

また、
花が終わった秋から春先にかけては葉だけになり、
その姿が食用のノビルやアサツキに似ているため、
誤食してしまうケースもある。

鱗茎は
石蒜(せきさん)という名の生薬であり、
利尿や去痰作用があるが、
有毒であるため
素人が民間療法として利用するのは危険である。

毒成分の一つであるガランタミンは
アルツハイマー病の治療薬として利用されている。

彼岸花の名は
秋の彼岸頃から開花することに由来する。

別の説には、
これを食べた後は「彼岸(死)」しかない、
というものもある。

別名の曼珠沙華は、
『法華経』などの仏典に由来する。

また、「天上の花」という意味も持っており、
相反するものがある(仏教の経典より)。

ただし、
仏教でいう曼珠沙華は
「白くやわらかな花」であり、
ヒガンバナの外観とは似ても似つかぬものである
(近縁種ナツズイセンの花は白い)。

『万葉集』に見える
「いちしの花」を彼岸花とする説もある
(「路のべの壱師の花の灼然く人皆知りぬ我が恋妻は」)。

また、
毒を抜いて非常食とすることもあるので
悲願の花という解釈もある
(ただし、食用は一般的には危険である)。

異名が多く、
死人花(しびとばな)、地獄花(じごくばな)、
幽霊花(ゆうれいばな)、蛇花(へびのはな)、
剃刀花(かみそりばな)、狐花(きつねばな)、
捨子花(すてごばな)、はっかけばばあと呼んで、

日本では不吉であると忌み嫌われることもあるが、
反対に「赤い花」「天上の花」の意味で、
めでたい兆しとされることもある。

日本での別名・地方名・方言は千以上が知られている。

学名の属名Lycoris(リコリス)は、
ギリシャ神話の女神・海の精である
ネレイドの一人 Lycorias からとられ、
種小名 radiata は「放射状」の意味である。

自転車屋の生き物歳時記  植物編  ヒガンバナ

2019/09/22

ラーメンまこと屋 牛醤ラーメン

9月22日
日曜日

ラーメンまこと屋
長田南店

牛醤ラーメン
麺固め
煮玉子トッピング

半チャーハン

ラーメンまこと屋  牛醤ラーメン

2019/09/22

有岡城の戦い

9月22日
日曜日

有岡城の戦い

1579年9月22日
(天正7年9月2日)

荒木村重が配下を残し、有岡城を脱出。

有岡城の戦い(ありおかじょうのたたかい)は、
天正6年(1578年)7月から
翌天正7年(1579年)10月19日にかけて
行われた籠城戦。

織田信長に帰属していた
荒木村重が突然謀反を起こしたことに端を発する。
「伊丹城の戦い」とも呼ばれている。

村重の織田信長に対する謀反の理由は、
諸説があって今でも定かではない。

ただ、信長は村重を重用していたため、
その反逆に驚愕し、翻意を促したと言われている
(信長公記、フロイス日本史など)。

村重は足利義昭や石山本願寺とも親しかったため、
両者の要請を受けて信長に反逆した。

村重が支配していた摂津は
当時、中国方面に進出していた羽柴秀吉と
播磨、丹波方面に進出していた明智光秀らにとって
重要な地点であり、
村重が反逆した場合、両者は孤立することになるため、
前掲2者の意向を受けての
謀反だったのではないかという説。
(幕府奉公衆の小林家孝が
有岡城に入城して連絡係を務めていた)

村重の家臣(中川清秀という)が
密かに石山本願寺に兵糧を横流ししていたため、
それが信長に発覚した場合の
処罰を恐れての謀反であったという説。


信長の側近・長谷川秀一の
傲慢に耐えかねたという説(『当代記』)。

同書では
秀一が村重に対して小便をひっかけたとしている。

これは竹中重治と同じ逸話であり信頼性は乏しいが、
信長の側近衆と何らかの対立があったとみる説がある。

天正元年(1573年)、
村重は信長を近江国の瀬田で出迎えたが、
この時に信長が刀の先に突き刺して差し出した餅を
くわえさせられるという
恥辱を味わさせられたという怨恨説。

黒田孝高(当時は小寺孝隆)と相談の謀略説。

信長暗殺のため(後に成功した本能寺のように)
手勢が手薄なところへ誘き出し
夜襲する計画であったという。

そのため
信長の遺産を継いで天下人となった
豊臣秀吉・徳川家康などからは
厚遇されることになったとされる説。

実際、
信長は孝高を村重方に寝返ったと決めつけ、
人質としていた孝高の子・松寿丸(のちの黒田長政)の
処刑を秀吉に命じている。

将来に希望が持てなくなったからという説。

石山合戦では先鋒を務め、
播磨国衆との繋がりもあったが、
本願寺攻めの指揮官が佐久間信盛になり、
播磨方面軍も羽柴秀吉が司令官に就任したことから
活躍の場がなくなったからといわれる。

摂津国内では
信長勢力の進出まで国衆や寺内町・郷村などが
比較的独自の支配体制を築いてきたが、
信長はこうした勢力を統制下に置こうとしたために
織田政権への反発が強まり、
その矛先が村重に向けられつつあった。

村重は
国衆や百姓からの突き上げに追い込まれた結果、
却って信長に叛旗を翻して
彼らの支持を受けた方が摂津支配を保てると
判断したとする説。

実際、
村重の反逆の直後に
これまで石山本願寺の目の前にありながら
石山合戦に中立的であった
摂津西部の一向一揆が蜂起し、
尼崎城や花隈城の戦いでは
むしろ彼ら百姓主導による抵抗が行われて、
信長軍も西宮から須磨の村々を焼き討ちにして
兵庫津では
僧俗男女の区別なく皆殺しにしたと伝えられている。

有岡城の戦い