2020/06/21
夏至
6月21日
日曜日
夏至
二十四節気の一つ。
夏至(げし、英: summer solstice)は、
二十四節気の第10。
北半球ではこの日が一年のうちで
最も昼(日の出から日没まで)の時間が長い。
南半球では、
北半球の夏至の日に最も昼の時間が短くなる。
日本における旧暦5月内に発生する。
期間としての意味もあり、
この日から次の節気の小暑前日までである。
西洋占星術では、
夏至を巨蟹宮(かに座)の始まりとする。
日本の大部分では梅雨のさなか。
北半球では一年中で一番昼が長く夜が短い日である。
『暦便覧』には
「陽熱至極しまた、日の長きのいたりなるを以てなり」
と記されている。
日付
2020/06/21
本能寺の変 四国陰謀説
6月21日
日曜日
本能寺の変
1582年6月21日
(天正10年6月2日)
明智光秀が
京都の本能寺に滞在中の織田信長を襲撃し、
織田は自害。
本能寺の変については
実に様々な説があり歴史学者の間でも
意見は分かれるが
近年で最も有力な説は四国説になって来ていて
私も四国説だろうと思います。
四国陰謀説
信長の四国征伐を回避するために
光秀が謀反を起こしたとする説の総称。
単に四国説とも呼ばれる。
総称と述べたのは、
この説の扱いについては
必ずしも定まっていないからである。
当項では
四国征伐回避を主要因であり
大義名分であったとして分類したが、
副次的な要因と捉えることも可能で、
四国政策において面目を潰されたために
謀反を起したという怨恨説、
あるいは四国政策の失敗や
ライバル秀吉に負けたことに
不安を募らせたという不安説と考えたり、
または四国征伐を挫折させるために
長宗我部元親や斎藤利三が積極的に黒幕となって
謀反を起させたとすれば
黒幕説や共謀説と解することも可能なわけで、
まだまだ様々な解釈が存在するからである。
この説が俄かに注目を集めたのは、
平成26年(2014年)、
石谷家(いしがいけ)文書(林原美術館蔵)の中から
元親から利三に宛てた書状が発見されたからである。
共同研究を進めている
同館学芸課課長浅利尚民と
岡山県立博物館学芸課主幹内池英樹は、
この資料は本能寺の変直前の
斎藤利三と長宗我部元親の考えや行動を
明らかにするもので
「本能寺の変のきっかけとなった可能性のある書状」
と評価している。
内容は、
元親が土佐国・阿波2郡のみの領有と
上洛に応じる旨を記しており、
ここから四国攻めが実施されると
政治的に秀吉=三好笑岩ラインの完全勝利となり、
光秀は織田政権下はもちろん
長宗我部氏に対しても面目を失い、
いずれ
失脚することになると思った可能性があることから、
それで本能寺の変を起こしたとも
読み取れると論評された。
ただし、
この文書と四国説を結びつけるためには、
利三に届けられた元親の考えが信長の耳に入ったか、
入ったとすれば信長はそれにどう反応したか、
またこの知らせを光秀はどう受け止めたか、
などの可能性を慎重に検討する必要があり、
魅力的な文書ではあるものの、
四国説が正しいと言えるような
直接的な証拠足り得ない、とする意見もある。
従来より
四国政策変更の問題については、
高柳、桑田いずれも指摘してきたが、
藤田達生は三好康長は本能寺の変以前に
秀吉の甥の信吉(後の豊臣秀次)と養子縁組を結んで
秀吉と三好水軍を連携させたことによって
秀吉・光秀間に政治的対立が生じたこと、
光秀が
長宗我部氏からの軍事支援を期待して
本来であれば徳川家康が堺から帰洛後に行う筈であった
襲撃を繰り上げたとしている。
藤田は
「長年、長宗我部との取り次ぎにあたってきた光秀には、業績を全面否定される屈辱だったでしょう。
ライバルの秀吉にも追い落とされるとの思いで、
クーデターに及んだのではないでしょうか」と言った。
桐野作人は、
以前からさらに踏み込んだ
利三主導の四国説を唱えていたが、
石谷家文書について
「元親が譲歩したといっても、
織田信長は阿波を取り上げる方針を決めており、
とても報告できない内容だった。
こうなったら四国攻めに加担するか、
あるいは思い切って謀反に立ち上がるか。
決断に迫られたと思う」と述べている。
2020/06/20
ペパーミントの日
6月20日
土曜日
ペパーミントの日
ハッカが特産品の
北海道北見市まちづくり研究会が
1987年(昭和62年)に制定。
「はっか(20日)」の語呂合せ。
6月は、
この月の北海道の爽やかさが
ハッカそのものであるとのことから。