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2019/10/07

第一次天正伊賀の乱

10月7日
月曜日

第一次天正伊賀の乱

1579年10月7日
(天正6年9月19日)

織田信雄が伊賀国に侵攻するも、
伊賀国人衆に敗退。
(第一次天正伊賀の乱)

北畠家の養子となっていた
織田信長の次男織田信雄は、
天正4年(1576年)に
北畠具教ら北畠一族を三瀬の変で暗殺し
伊勢国を掌握すると、
次は伊賀国の領国化を狙っていた。

1578年(天正6年)2月
伊賀国の郷士の
日奈知城主・下山平兵衛(下山甲斐守)が信雄を訪れ、
伊賀国への手引きを申し出た。

信雄は同年3月に
滝川雄利に北畠具教が隠居城として築城した
丸山城の修築を命じた。

これを知った伊賀国郷士衆は驚き、
丸山城の西にある天童山に密偵を送り、
築城の様子をうかがった。

丸山城は3層の天守や天守台は石垣で固められ、
また二の丸への登城道は9回折れているなど、
規模壮大な城であったと記されている。

すぐさま
伊賀郷士11名が平楽寺に集まり、
「完成までに攻撃すべし」と集議一決した。

丸山城周辺の
神戸、上林、比土、才良、郡村、沖、
市部、猪田、依那具、四十九、比自岐衆が集結し、
同年10月25日に集結した
忍者たちが総攻撃を開始した。

不意を突かれた滝川雄利軍や人夫衆は混乱し、
昼過ぎには残存兵力を糾合し伊勢国に敗走した。

『伊乱記』には、
「伊賀衆は雄利を討ち取ったと喜んだ。
しかし雄利が無事であることを知って落胆した」とある。

翌天正7年(1579年)9月16日
信雄は信長に相談もせず
独断で8000の兵を率いて
伊賀国に3方から侵攻したが、
伊賀郷士衆は各地で抗戦し信雄軍を伊勢国に敗走させた。

伊賀衆の
夜襲や松明を用いた撹乱作戦や
地形を活かした奇襲などで、
2~3日で信雄軍は多くの兵を失い 、伊勢へ敗走した。

信雄軍は
重臣の柘植保重を討たれる(鬼瘤峠の戦い)など
被害は甚大で、侵攻は失敗に終わった。

信雄が無断で伊賀に侵攻し、
さらに敗戦したことを知った信長は激怒し、
信雄を叱責した。

信長が信雄に
「親子の縁を切る」と書いた書状を
したためたというからその怒りは
相当なものであったと考えられる。

また、
この信雄の敗戦を受け、
信長は忍者に対し警戒心を抱き、
後の第二次伊賀の乱へ繋がっていく。

しかし
信長はこの頃石山本願寺との抗争が激化し、
伊賀国平定は後回しせざるを得なかった。

映画『忍びの国』の世界ですな❗

第一次天正伊賀の乱

2019/10/06

役所改革の日

10月6日
日曜日

役所改革の日

1969年(昭和44年)10月6日

千葉県松戸市役所が、
松本清市長(当時)の発案による、
従来の縦割り行政では
対応できないような仕事にすぐに対応する
「すぐやる課」を設置した。

これは
素晴らしい改革でしたね❗

役所改革の日

2019/10/05

レモンの日

10月5日
土曜日

レモンの日

1938年(昭和13年)10月5日

詩人の
高村光太郎の妻・智恵子が亡くなり、
亡くなる数時間前に
レモンをかじる姿をうたった、
「そんなにもあなたはレモンを待っていた・・・
私の手からとつた一つのレモンを
あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ」という
「智恵子抄」の
「レモン哀歌」にちなんでいる。

レモンの日は
切ない日ですな😞

レモンの日