2020/06/30
大祓(夏越の祓)
6月30日
火曜日
大祓(夏越の祓)
大祓(おおはらえ、おおはらい)は、
日本の神道儀式の祓の1つ。
祓は浄化の儀式として
宮中や神社で日常的に行われるが、
特に天下万民の罪穢を祓うという意味で大祓という。
毎年6月と12月の晦日、
すなわち、
新暦6月30日と12月31日に行われるものを
恒例とするが、
天皇即位後の最初の新嘗祭である大嘗祭の前後や、
未曾有の疫病の流行、
斎宮斎院の卜定、災害の襲来などでも
臨時に執り行うことがあった。
中臣(なかとみ)の祓とも言われる。
大祓の初見は、
『古事記』仲哀天皇の段にある
「更に国の大奴佐(おほぬさ)を取りて、
生剝(いきはぎ)、逆剝(さかはぎ)、
阿離(あはなち)、溝埋(みぞうめ)、
屎戸(くそへ)、上通下通婚(おやこたはけ)、
馬婚(うまたはけ)、牛婚(うしたはけ)、
鶏婚(とりたはけ)、犬婚(いぬたはけ)の罪の類を
種種求(ま)ぎて、国の大祓して」を指すとされる。
これら祓うべきものたちを
「天つ罪」「国つ罪」といい、
世俗的な罪とは異なり、
祓い清めるには普通の祓式で用いる短文の祓詞
(はらえことば、のりと)ではなく、
長文の大祓詞を奏上、
あるいは宣(の)り下して浄化する。
大祓詞には
地上で国の人間が犯す罪が主体の
「国つ罪」よりも農耕に関する慣行を破ることが主体の「天つ罪」のほうを先に列挙しており、
古代ではこちらのほうが
共同体秩序を乱す大罪と考えていたことが伺える。
大祓詞の内容は、
元々は6月と12月で内容が異なっていたが、
『延喜式』に「六月晦大祓、十二月此准」とあり、
6月のものが残ったとされる。
現在は神職が神へ奏上する形をとっているが、
『延喜式』に残された内容からは、
本来は参集者に向かって「祝詞をよく聞け」と
呼びかけこれに「おう」と称唯(いしょう)して
答えるのに始まり、
天孫降臨からの日本神話、罪穢の種類の列挙、
そしてその祓い方と、その後祓戸大神により、
どのように罪穢が消えていくかを
言い聞かせる内容となっていた。
このように、
大祓は、これら既に起きてしまった
災厄をリセットして今後の国体の鎮守を図る意味の他、
共同体の構成員に全員の参加を義務付けて
宣下する本来の形式が推定されることから、
上位の政権による
“禁忌を犯してはならない”という法を
広く知らしめて遵守させる側面があったと考えられる。
現在は大正3年(1914年)に
当時の内務省の選定による神話や
障害者に対する差別的な表現内容を含む
天つ罪・国つ罪の列挙の部分が大幅に省略された
大祝詞が奏上される。
これは中臣祭文(さいもん)とも言われ、
現在の大祓詞はこれを一部改訂したものになっている。
2020/06/29
自転車屋の生き物歳時記 カラスアゲハ
6月29日
月曜日
自転車屋の生き物歳時記
カラスアゲハ
ナミアゲハや
アオスジアゲハは
ちょくちょく見かけるけど
ごく稀には
こう言う大物も
たまには見かけるのよ。
カラスアゲハ(烏揚羽、Papilio dehaanii)は
チョウ目アゲハチョウ科に分類される
チョウの一種。
日本では
北海道から九州まで全土に分布する。
本州南部では
年2~3回発生し、4~9月頃に見られる。
生息域は食草・食樹の生息環境に左右されるため、
本種は基本的に市街地にはいない。
しかし、
カラスザンショウなどの食草さえあれば、
市街地でも見ることができる。
他のアゲハの仲間と比べ飛ぶ速度が遅め。
前翅長45~80mm。
本種も含め
アゲハチョウ科では夏型は春型より大型になる。
オスには前翅に黒いビロード状の毛があるが、
メスにはない。
また、
メスはオスに比べて後翅の赤斑が目立つという
特徴がある。
幼虫の食草は
コクサギ、キハダ、サンショウ、カラスザンショウ、
ミヤマシキミ、カラタチなど
ミカン科の木の葉だが、
栽培種のミカン類はあまり好まない。
2020/06/29
朝鮮通信使
6月29日
月曜日
朝鮮通信使
1607年6月29日
(慶長12年5月6日)
朝鮮通信使が
初めて江戸を訪問し、将軍徳川秀忠と会見。
朝鮮通信使(ちょうせんつうしんし)とは、
室町時代から江戸時代にかけて
李氏朝鮮から日本へ派遣された外交使節団である。
正式名称を朝鮮聘礼使と言う。
その名の通り
江戸幕府はこれを事実上の朝貢使節として扱っていた。
朝鮮通信使のそもそもの趣旨は、
室町幕府の将軍からの使者と国書に対する
高麗王朝の返礼であった。
1375年(永和元年)に
足利義満によって派遣された日本国王使に対して
信(よしみ)を通わす使者として
派遣されたのが始まりである。
15世紀半ばからしばらく途絶え、
安土桃山時代に李氏朝鮮から秀吉に向けても派遣された。
しかし、
その後の文禄・慶長の役(壬辰・丁酉倭乱)によって
日朝間が国交断絶となったために中断されて、
江戸時代に再開された。
広義の意味では、
室町時代から江戸時代にかけてのもの全部を指すが、
一般に朝鮮通信使と記述する場合は
狭義の意味の江戸時代のそれを指すことが多い。
「朝鮮通信使」という表現は
研究者による学術用語であり、
史料上には「信使」・「朝鮮信使」として現れる。
また
江戸幕府は朝鮮通信使の来日については
琉球使節と同様に
「貢物を献上する」という意味を含む
「来聘」という表現をもっぱら用いており、
使節についても「朝鮮来聘使」・「来聘使」
・「朝鮮聘礼使」・「聘礼使」と称し、
一般にもそのように呼ばれていた。
江戸幕府の外交政策において、
朝鮮は琉球王国と並んで
正式な国交のある通信国とされていた。
その他の
中国の明や清、ポルトガル(南蛮)、
オランダ・イギリス(紅毛)といった国々は
貿商国と定義されており、
貿易は行いつつも幕末まで正式の外交関係はなかった。
このため
朝鮮通信使は江戸幕府の威信を示す機会であるとともに、文化交流のきっかけにもなった。