2020/07/02
蛸の日
7月2日
木曜日
蛸の日
蛸研究会が制定。
関西地方では
7月2日頃の半夏生に
蛸を食べる人が多いことから。
河内地方では
はげっしょだこ‼️
稲の根が
タコの足のように
しっかりと根付くようにやね‼️
2020/07/02
山崎の戦い
7月2日
木曜日
山崎の戦い
1582年7月2日
(天正10年6月13日)
羽柴秀吉が明智光秀を破り、
光秀は敗走中に雑兵に刺殺される。
山崎の戦い(やまざきのたたかい)は、
天正10年(1582年)6月2日の
本能寺の変を受け、
6月13日(西暦7月2日)に
摂津国と山城国の境に位置する山崎
(京都府長岡京市乙訓郡大山崎町)において、
備中高松城の攻城戦から引き返してきた
羽柴秀吉軍と、
織田信長を討った明智光秀の軍勢が激突した戦い。
秀吉は、
この信長の弔い合戦に勝利した結果、
清洲会議を経て
信長の後継者としての地位を固め、
天下人への道を歩み始める。
清洲会議後の7月19日には、
最後に残った光秀方の将である
武田元明が丹羽長秀に攻められ自刃、
京極高次は妹または姉の竜子(松の丸殿)を
秀吉に差し出して降伏した。
光秀の敗因はまず兵力差が挙げられる。
これには
秀吉の動きが予想を遥かに上回る迅速さだったこと、
中国平定のために秀吉が
信長軍の主力を任されていたこと、
周辺勢力の助力を得られなかったこと
(特に畿内の有力大名であった細川・筒井両氏)、
兵を近江方面に割いていたことなど
様々な要因が絡んでおり、
結果的に光秀は十分な兵力を揃えられないまま
京と西国を結ぶ最後の要所である
山崎での決戦に挑まざるを得ない状況に立たされた。
羽柴方にも
強行軍による将兵の疲弊という不安要素はあったが、
総じて戦略段階で既に大勢は決していたと言える。
現在の天王山山中には
「秀吉旗立ての松」が残っている他、
合戦の経過を解説する石板などが設置されている。
2020/07/01
日米修好通商条約
7月1日
水曜日
日米修好通商条約
1859年7月1日
(安政6年6月2日)
日米修好通商条約に基づき、
神奈川(横浜港)、長崎(長崎港)
、箱館(函館港)が開港される。
日米修好通商条約
(にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく、
英: Treaty of Amity and Commerce Between the United States and the Empire of Japan)は、
安政5年6月19日(1858年7月29日)に
日本とアメリカ合衆国の間で結ばれた通商条約である。
江戸幕府が
日本を代表する政府として調印した条約であり、
条約批准書原本には「源家茂」として
当時の14代将軍徳川家茂の署名と銀印
「経文緯武」が押印なされ、
安政7年4月3日(1860年5月22日)に
ワシントンで同批准書が交換された。
欧語では
アメリカ全権タウンゼント・ハリスの名を冠して、
ハリス条約(Harris Treaty)とも通称される。
アメリカ側に領事裁判権を認め、
日本に関税自主権がなかったことなどから、
日本側に不利であり、一般に不平等条約といわれる。
しかし
同条約の付則第七則で定められた関税率は、
漁具、建材、食料などは5%の低率関税であったが、
それ以外は20%であり、
酒類は35%の高関税であった。
幕府は同様の条約を
イギリス・フランス・オランダ・ロシアとも結んだ
(安政五か国条約)。
但し、
日米修好通商条約の第二条は
「日本國と欧羅巴中の或る國との間に
もし障り起る時は日本政府の囑に應し
合衆國の大統領和親の媒となりて扱ふへし」と
規定されており、
これは日本とヨーロッパ列強との間に
揉め事が発生した場合、
アメリカが仲介することを宣言したもので、
他の四カ国との条約にはこの文言はなかった。
条約の第13条に
1872年(明治5年)7月4日には
条約を改正できる旨の条項が設けられていたが、
ときの明治政府は
まだ何ら組織が整っていなかったため、
交渉開始の延期を申し入れ、
1876年から各国と条約改正交渉を開始した。
交渉は難航し、
日清開戦直前の
1894年7月16日の日英通商航海条約の締結により
領事裁判権の撤廃が実現したが、
関税自主権を回復したのは
日露戦争後の1911年2月21日調印の
新日米通商航海条約まで待たねばならなかった。
条約書の原本は、
1997年(平成9年)に、
歴史資料として重要文化財に指定された。