ブログ

2020/07/10

ウルトラマンの日

7月10日
金曜日

ウルトラマンの日

1966年(昭和41年)7月10日

特撮番組『ウルトラマン』の放映が
開始されたことを記念し、
日本記念日協会に申請して認定を受けた。

前番組『ウルトラQ』の最終話が
急遽放送されないことになったため、
穴埋めとしてこの前日に行われた
ウルトラマンの宣伝イベントの模様を
「ウルトラマン前夜祭」として放映した。

ちなみに2013年(平成25年)のこの日

『新ウルトラマン列伝』内にて
円谷プロダクション創立50周年記念作品の
『ウルトラマンギンガ』の第1話が放送された。

ウルトラマンの登場は
当時の幼子の
私らには衝撃的でしたよ‼️

ウルトラマンの日

2020/07/10

乙巳の変(いっしのへん)

7月10日
金曜日

乙巳の変(いっしのへん)

645年7月10日
(皇極天皇4年6月12日)

乙巳の変で蘇我入鹿が暗殺される。

乙巳の変(いっしのへん、いつしのへん、おっしのへん)

中大兄皇子・中臣鎌足らが
蘇我入鹿を宮中にて暗殺して
蘇我氏(蘇我宗家)を滅ぼした飛鳥時代の政変。

その後、
中大兄皇子は体制を刷新して
大化の改新と呼ばれる改革を断行した。

蘇我入鹿が殺害された事件を
「大化の改新」と言う場合もあるが、
厳密にはクーデター「乙巳の変」に始まる
一連の政治制度改革が「大化の改新」であり
「乙巳の変」は「大化の改新」の第一段階である。

このクーデターには
色んな説がありますが
皇極王権否定説が
一番しっくり来るかなと思います。

皇極王権否定説

乙巳の変は
これまでの大王(天皇)の終身性を否定し、
皇極天皇による譲位を引き起こした。

その意義について
佐藤長門は乙巳の変は蘇我氏のみならず、
蘇我氏にそれだけの権力を与えてきた
皇極天皇の王権そのものに対する異議申し立てであり、
実質上の「王殺し」に匹敵するものであったとする。

ただし、
首謀者の中大兄皇子は皇極天皇の実子であり
実際には大臣の蘇我氏を討つことで異議申し立てを行い、皇極天皇は殺害される代わりに
強制的に退位を選ばざるを得ない状況に追い込まれた。

ところが、
次代の孝徳天皇(軽皇子)の皇太子となった
中大兄皇子は最終的には天皇と決別してしまった。

孝徳天皇の王権を否定したことで
後継者としての正統性を喪失した中大兄皇子は、
自己の皇位継承者としての正統性を
確保する必要に迫られて
乙巳の変において否定した筈の
皇極天皇の重祚(斉明天皇)に踏み切った。

だが、
排除した筈の大王(天皇)の復帰には
内外から激しい反発を受け、
重祚した天皇による失政もあり、
重祚を進めた中大兄皇子の威信も傷つけられた。

斉明天皇の崩御後に
群臣の支持を得られなかった中大兄皇子は
百済救援を優先させるとともに
群臣の信頼を回復させるための時間が必要であったため、自身の即位を遅らせたというのである。

乙巳の変(いっしのへん)

2020/07/09

信玄堤(しんげんつつみ)

7月9日
木曜日

信玄堤(しんげんつつみ)

今年も梅雨末期になり
九州を始め
線状降水帯と呼ばれる雨雲の帯により
局地的な豪雨に見舞われ大変な被害が出ています。

被災された方々にお見舞い申し上げます。

地球温暖化だからとか
異常気象だからとか言われますし
線状降水帯と言う言葉が生まれていますが

遠い昔には
そう言う豪雨がなかったのかと言うと
そんな事はまったくない訳で
いつの時代でも水害には見舞われていた訳です。

戦国最強と呼ばれた
武田信玄は
戦が強かっただけではなく
極めて治水に長けていたと言われています。

敢えて
決壊する場所を作くり水を逃がしたり
水を逆流させて貯める場所を作ったり
巧みな技術で水害を抑えています。

現代に置いて
上流に治水用のダムを作るのは当然の事ですが
ダムも危険水位に達すると放流する訳なので
河川側にも治水工事は必要です。

ダムの治水と河川の治水
双方の組み合わせが機能してこそ
治水が功を奏するのだと思います。

武田信玄が作った
信玄堤に学ぶ事は多いと思います。

信玄堤(しんげんつつみ)は、
山梨県甲斐市竜王にある堤防である。

しかしその堤防だけでなく、
信玄堤や聖牛、将棋頭などの治水構造物を含めた
総合的な治水システム自体を信玄堤として
指している場合もある。

なお治水システムの構造物に雁行が含まれ、
これを急流河川型霞堤として解説、
紹介されることがあるが、
信玄堤自体は霞堤ではない。

戦国時代に甲斐の守護、
戦国大名である武田信玄(晴信)により
築かれたとされる。

史料上では「竜王川除場」と記されており、
「信玄堤」の呼称は江戸時代後期から見られ、
近代以降に一般化した。

また「信玄堤」と呼ばれる堤防は
武田氏以降のものを含め
県内各地にも存在する(『甲斐国志』に拠る)。

信玄堤(しんげんつつみ)