2020/07/13
船中八策
7月13日
月曜日
船中八策
1867年7月13日
(慶応3年6月12日)
坂本龍馬が『船中八策』を著す。
船中八策(せんちゅうはっさく)は、
土佐藩脱藩志士の
坂本龍馬が江戸時代末期(幕末)の
慶応3年(1867年)に起草した
新国家体制の基本方針とされるものの俗称。
後世の創作である、という説が有力である。
慶応3年(1867年)6月
坂本龍馬は
いろは丸沈没事件を解決させたのち、
京都に上洛していた
前土佐藩主の山内豊信(容堂)に対して
大政奉還論を進言するため、
藩船の夕顔丸で長崎を出航し、
上洛中の洋上で
参政の後藤象二郎に対して口頭で提示したものを
海援隊士の長岡謙吉が
書きとめ成文化したとされている。
公議政体論のもと、
大政奉還
上下両院の設置による議会政治
有能な人材の政治への登用
不平等条約の改定
憲法制定
海軍力の増強
御親兵の設置
金銀の交換レートの変更
当時としては画期的な条文が
平素な文章として記されている。
龍馬と交流のあった
勝海舟、大久保一翁の影響、
福井藩の政治顧問であった横井小楠からの影響も
指摘されている。
また由利公正や上田藩士の赤松小三郎、
真木保臣(久留米水天宮宮司、久留米藩士)が
1861年(文久元年)に著した
『経緯愚説』から影響を受けたとする説もある。
8番目の経済政策は、
海援隊を組織して貿易を行なっていた
龍馬らしい着眼点といえる
(金銀の交換レートが国内と国外で異なっていると、
二国間で金銀の交換を行なうだけで
利益を上げられるので、
貿易や物価安定に好ましくない)。
薩土盟約や土佐藩の大政奉還建白書、
五箇条の御誓文にまで連なる内容を持ち、
卓越した議論といえる。
2020/07/12
7月のあぐろの湯
7月12日
日曜日
7月のあぐろの湯
客足は
普通に戻ってる感じですが
バスで集団やって来る
中国人がいないので空いてますな😃
風呂上がり
いつものセット😄
2020/07/12
ひかわ同剣の日
7月12日
日曜日
ひかわ銅剣の日
島根県斐川町(現出雲市)が制定。
1984年(昭和59年)7月12日洋
斐川町の荒神谷から
弥生時代の銅剣358本が発見された。
後に、
その全てが国宝に指定された。
荒神谷遺跡(こうじんだにいせき)は、
島根県出雲市斐川町神庭の小さな谷間にある遺跡。
国の史跡に指定されている。
史跡としての指定名称は
「荒神谷遺跡」であるが、
地名を冠して「神庭荒神谷遺跡」とも呼ばれる。
1983年(昭和58年)
広域農道(愛称・出雲ロマン街道)の建設に伴い
遺跡調査が行われた。
この際に
調査員が古墳時代の須恵器の破片を発見したことから
発掘調査が開始された。
1984年~1985年
(昭和59年~昭和60年)の2か年の発掘調査で、
銅剣358本、銅鐸6個、銅鉾16が出土した。
銅剣は1985年(昭和60年)に
国の重要文化財に指定され、
銅鐸・銅矛は1987年(昭和62年)に
追加指定されていたが、
1998年(平成10年)に一括して
「島根県荒神谷遺跡出土品」として
国宝に指定されている。
遺跡自体は
1987年(昭和62年)に国の史跡に指定された。
斐川町(現:出雲市)が中心となり
1995年(平成4年)に遺跡一帯に
「荒神谷史跡公園」が整備され、
2005年(平成17年)には公園内に
「荒神谷博物館」が開館した。
出土品は国(文化庁)が所有し、
2007年(平成19年)3月に
出雲市大社町杵築東に開館した
「島根県立古代出雲歴史博物館」に常設展示されている。
なお、
上述の荒神谷博物館においても、
特別展などで出土品の展示が行われることがある。
銅剣の一箇所からの出土数としては最多であり、
この遺跡の発見は
日本古代史学・考古学界に大きな衝撃を与えた。
これにより、
実体の分からない神話の国という
古代出雲のイメージは払拭された。
その後の加茂岩倉遺跡の発見により、
古代出雲の勢力を解明する
重要な手がかりとしての重要性はさらに高まった。
当時の大和朝廷が
「イズモ」を特別な地域であると認識していた事が、
記紀の記述にもあり、
また神話のなかの三分の一を出雲神話で占める、
といったことからも証明される形となっている。
更に、
時代が下って編纂された「式内宮」として
認められた神社の、
出雲地方での総数と出土した銅剣の本数との
奇妙な一致があげられる。
当初は、
農道を造るために、
神庭と呼ばれる場所であることから、
とりあえず発掘調査をすることになり、
最初に掘ったトレンチから銅剣が出てきた。
担当者は連絡に奔走し、同時に発掘を進めていった。
当初は百本位だろうと考えられたが、
次々に出土し、最終的に358本という数に達した。
それまでに
全国で発掘された
銅剣の総数を超える数の銅剣が発掘された事は
当時のマスコミを
興奮のるつぼに放り込んだ形となった。