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2019/10/31

ハロウィン起源

10月31日
木曜日

ハロウィン起源

古代ケルトのドルイドの信仰では、
新年の始まりは冬の季節の始まりである
11月1日のサウィン(サオィン[ˈsaʊ.ɪn]、
サワーン[ˈsaʊn]、サーウィン[ˈsɑːwɪn]または、
サウィーン、サーオィン、
サムハイン、Samhain)祭であった。

ちょうど短い日が
新しい年の始まりを示していたように、
日没は新しい日の始まりを意味していた。

したがって、
この収穫祭は毎年現在の暦で言えば
10月31日の夜に始まった。

アイルランドと英国のドルイド祭司たちは、
かがり火を焚き、作物と動物の犠牲を捧げた。

また、
ドルイド祭司たちが火のまわりで踊るとともに、
太陽の季節が過ぎ去り、暗闇の季節が始まった。

11月1日の朝が来ると、
ドルイド祭司は、各家庭にこの火から燃えさしを与えた。  

各家族は、この火を家に持ち帰り、
かまどの火を新しくつけて家を暖め、
悪いシー(Sí、ケルト神話の妖精。

ちなみに「バンシー」とは「女の妖精」の意。)
などが入らないようにする。

1年のこの時期には、
この世と霊界との間に目に見えない「門」が開き、
この両方の世界の間で自由に行き来が可能となると
信じられていたからである。

祭典ではかがり火が大きな役割を演じた。

村民たちは、
屠殺した牛の骨を炎の上に投げ込んだ。

かがり火が燃え上がると、
村人たちは他のすべての火を消した。

その後、
各家族は厳粛にこの共通の炎から炉床に火をつけた。

つまり
ハロウィンとは
我が国の行事に当てはめると

霊を迎えるお盆と
新年を迎える大晦日を
くっ付けたような行事であった訳ですね❗

ハロウィン起源

2019/10/30

たまごかけごはんの日

10月30日
水曜日

たまごかけごはんの日

2005年(平成17年)10月30日

島根県雲南市で開かれた
「第1回日本たまごかけごはんシンポジウム」
において制定。

たまごかけごはん自体は
古来からあるのに
記念日が出来たのは近年なんやな❗

たまごかけごはんの日

2019/10/30

泗川の戦い(しせんのたたかい)

10月30日
水曜日

泗川の戦い(しせんのたたかい)

1598年10月30日
(慶長3年10月1日)

慶長の役・泗川の戦い

島津義弘、泗川城で明・朝鮮軍を大破する。

泗川の戦い(しせんのたたかい)は、
文禄・慶長の役における合戦の一つ。

日本の慶長3年
/明の万暦26年9月(1598年10月)

朝鮮半島の泗川で
島津義弘率いる島津軍7千が
明の武将董一元率いる数万(後述)の
明・朝鮮連合軍と戦って撃退した戦いである。

絶望的な戦力差があったにもかかわらず、
劣勢な島津軍が勝利した
伝説的な戦いとして知られているが、
明軍の数および死者数については
資料ごとにかなりの差がある。

篭城側の島津軍はその戦力差のため、
長期戦になれば不利になる恐れがあった。

一方、
包囲側の明軍も最低でも数万以上と推測される大軍を
長期間展開するだけの食糧はなかった上に、
島津軍の奇襲によって食料庫を焼失している。

その結果、
双方とも短期決戦を選ぶ他なかったと推測される。

心理面においては、
明・朝鮮軍が連合軍であるために指揮統制が難しく、
一度不測の事態によって混乱すると
収拾が難しかったと思われる。

そして敵軍がわずか7千と圧倒的に劣勢だったため、
勝利を楽観視していたのではないかと思われる。

これらの要因は、連合軍の弱点となったといえる。

一方の島津軍は、
この戦いに敗れれば日本軍の連携が崩壊し、
多くの味方が逃げ場を失うことを
強く認識していたものと思われる。

また島津の伝統的な釣り野伏せの戦術で
劣勢を覆した経験が幾度もあったことで、
全軍の意思も統一されていたと考えられる。

さらに味方の援軍を断って
島津家の兵だけで戦ったことにより、
少数ながらも軍としてのまとまりが
非常にあったものと思われる。

上記の要因が複合し、
島津軍の奇襲作戦や伏兵などが成功して
連合軍が混乱し瓦解したため、
寡兵の島津軍が勝利しえたと推測できる。

また
島津軍が大量の鉄砲を防御に使用し、
効果を挙げたことも大きな要因である。

泗川の戦い(しせんのたたかい)