2020/08/14
上米の制(あげまいのせい)
8月14日
金曜日
上米の制
1722年8月14日
(享保7年7月3日)
江戸幕府が、
米を上納を条件に
大名の参勤交代による江戸滞在を
半年に短縮する上米の制を導入。
上米の制(あげまいのせい)は、
江戸幕府8代将軍の徳川吉宗が
享保の改革の際に出した制度。
上げ米の制と表記することもある。
大名に
石高1万石に対して100石の米を納めさせる代わりに、参勤交代の際の
江戸在府期間を半年(従来は1年)とした。
幕府の増収に貢献したが、
問題点も多く享保15年(1730年)に廃止された。
そもそも上米の制は
「御恥辱を顧みられず仰せ出され候」
と述べられるように、
幕府財政を各藩に依存するものであり、
幕府権威の低下は免れなかった。
また、
参勤交代の緩和策は江戸藩邸での経費削減につながり、
大名の経済力の拡大をもたらしうるものだった。
つまり
参勤交代を半年に負けたるから
米をよこせとした所
各藩の大名にとっては
参勤交代で1年滞在するより
米を納めて半年にして貰う方が楽な事で
幕府の思惑通りにはならなかったと
そう言う事ですな😅
2020/08/13
自転車屋の生き物歳時記 ミンミンゼミ
8月13日
木曜日
自転車屋の生き物歳時記
ミンミンゼミ
先日の蓬山渓の沢歩きでは
ミンミンゼミの鳴き声をよく聴いた。
うちの近所では
クマゼミしか鳴いていないので
ミンミンゼミの鳴き声は
新鮮で心地好かった。
ミンミンゼミ
(ミンミン蟬、蛁蟟、学名 Hyalessa maculaticollis) は、カメムシ目(半翅目)・ヨコバイ亜目(同翅亜目)
・セミ科に分類されるセミの一種。
和名通りの「ミーンミンミンミンミンミー…」
という鳴き声がよく知られている。
成虫の体長は33~36mmほど。
幅が狭い頭部と太くて短い腹部をもち、
太く短い卵型の体型をしている。
ただし翅が体に対して大きく、
翅を含めるとアブラゼミとほぼ同じ大きさになる。
体色は胸部と腹部の境界付近が白いが、
他は黒地の地に水色や緑色の斑紋があり、
日本産のセミとしては比較的鮮やかな体色をしている。
黒斑部がほとんどなく青緑色主体の個体もおり、
これらはミカドミンミンと呼ばれる。
抜け殻はつやがなくアブラゼミと同じくらいの大きさ。
また、
このセミはアブラゼミやニイニイゼミなどとは異なり、
ヒグラシやエゾハルゼミと同じく森林性である。
東京23区や横浜市、仙台市などでは
例外的に街中でもミンミンゼミが数多く生息する。
ミンミンゼミは、
アブラゼミやクマゼミと比べると暑さに弱い、
とする仮説がある。
愛知県では、
名古屋市など夏の暑さが非常に厳しい地域では
このセミがほとんど生息していない。
その一方、
知多半島南部や渥美半島西部など、
夏に涼しい海風が卓越し最高気温の上昇が抑えられる地域には多数生息している。
中でも特に涼しい伊良湖岬(渥美半島の先端部)では、
生息密度が非常に高い。
加えて西三河の豊田市を例に見ると、
やはり似たような傾向が見られる。
豊田市の中心部など、
海抜の低いところではほとんど生息していないが、
豊田市の山間部(旧足助町や旧稲武町など)では
多数生息している。
なおアブラゼミやクマゼミには
このような地域によっての偏在傾向はなく、
名古屋市中心部でも毎年多数発生しており
ごく普通に見ることができる。
鹿児島県では、
市街地には全く生息していないが
海沿いの鬱蒼とした樹林には局地的に多数生息している。
これに関しても、
日中に海風が入り涼しい所を
好んで棲んでいることがうかがわれる。
このように、
ミンミンゼミは暑さを好まず
涼しい環境を好む傾向の強いセミである。
しかし、
これらの事実だけをもって
「ミンミンゼミは暑さに弱い」と断定すべきではない。
たとえば、
夏の暑さが東京より厳しい松江市
(しかもその暑さの程度は年々厳しくなっている)で、
後述のようにミンミンゼミの生息数が
昔と比べて増加しているという事実もある。
これは上記の仮説とは明らかに逆行する事実である。
ミンミンゼミは
傾斜地の樹木に生息することが多い。
東京23区内でも、
ミンミンゼミが多いのは傾斜地の公園であり、
平坦な公園では少なくアブラゼミが主流となっている。
これは、
ミンミンゼミの幼虫が傾斜地における土中を
好んで生息するためである。
ミンミンゼミの幼虫は
やや乾燥度の高い土中を好むのであるが、
傾斜地における土も日中は太陽の光が当たりやすく、
高温乾燥状態となりやすいため
このセミにとっては良好な環境である。
そして、
乾燥した土を好むというこのような幼虫の性格を見越し、ミンミンゼミの成虫(メス)は
傾斜地における木を選んで卵を産み付けるのである。
なお、
ミンミンゼミがもともと低山帯の谷沿いに
多く生息していて尾根沿いでは少ないのも、
上述と同じ理由による。
谷沿いは尾根沿いと比べて
高温乾燥状態となりやすいため、
谷沿いに繁殖しやすい。
日本国内では
北海道南部から九州、対馬、甑島列島に分布する。
このうち、
北海道東部・屈斜路湖の和琴半島にある
ミンミンゼミ生息地が分布北限とされ、
1951年に国指定の天然記念物に指定された
(「和琴ミンミンゼミ発生地」)。
「和琴半島のミンミンゼミ個体群」が
北海道のレッドリストの
「地域個体群」の指定を受けている。
東日本では平地の森林に生息し、
都市部の緑地などでも多いが、
西日本では都市部にはほとんど生息しておらず、
やや標高が高い山地を好んで生息している。
成虫は7月-9月上旬頃に発生し、
サクラ、ケヤキ、アオギリなどの木によく止まる。
日本のミンミンゼミは
土地の気候条件によって分布する範囲が限定されやすい。
そのため
アブラゼミをはじめとする他のセミと比べ、
非常にいびつな分布をしている。
分布決定にはもちろん、
他の原因(異種間の棲み分け・植生・土壌の湿度等)が
絡むこともあるが、
とりわけ重要な決定要因として気候があげられる。
もっともこれは
ミンミンゼミに限らず
ほぼ全ての昆虫において見られる傾向であるが、
とりわけミンミンゼミにおいては
この傾向が強く見られる。
これは、
気候の変化に対するミンミンゼミの感度が強く、
繊細な昆虫であることを意味する。
2020/08/13
寛政の改革
8月13日
木曜日
寛政の改革
1787年8月13日
(天明7年7月1日)
江戸幕府老中・松平定信が、
享保の改革にならうよう各役人に訓戒。
寛政の改革の始まり。
寛政の改革(かんせいのかいかく)は、
江戸時代中期、
松平定信が老中在任期間中の
1787年から1793年に
主導して行われた幕政改革である。
享保の改革、天保の改革とあわせて
三大改革と並称される。
前代の田沼時代は
最初期から天災飢餓が続出していた。
宝暦・明和期は大旱魃や洪水など天災が多発し、
江戸では明和の大火にて
死者は1万4700人、
行方不明者は4000人を超えた。
このように変事が続いたため
年号を安永に変更し安寧を願った。
当時の落首でも
「明和九も昨日を限り今日よりは. 壽命久しき安永の年」とうたっており天災が収まることを願われた。
しかし、
その後も天災地変は続き、
天災・疫病、三原山・桜島・浅間山の大噴火、
そして天明の大飢饉が起こった。
このような背景により
田沼時代は一揆や打ちこわしが
全国各地で激発した時代だった。
宝暦~天明期の38年の間に
発生した一揆の数は600件近くあり、
都市騒擾も150件以上にのぼった。
また件数の増大だけでなくその規模も拡大していた。
それに対し田沼は処罰の厳罰化にて対応しようとした。
全国的な一揆・打ちこわしの広まりは
幕藩体制の弱体化を示しており、
幕府の権威は大きく揺らいだ。
また、
定信政権自体が「打ちこわしが生んだ政権」でもあった。
江戸の打ちこわしがなければ
田沼派が失脚し定信の老中就任はなかった。
杉田玄白は
「もし今度の騒動なくば御政事改まるまじなど
申す人も侍はべり」と指摘している。
田沼時代は幕藩体制が解体向かう重要な転換期であった。
そんな田沼時代が終わった当初、
農業人口は140万人も減少しており、
幕府財政は天明の大飢饉の損害と将軍家治の葬儀の為、
100万両の赤字が予想されていた。
このような財政難の解消、
崩壊する封建的社会構造の維持が求められる中で
田沼の功利主義の元、民衆を顧みなかった時代とは違う、民衆を慰撫する政策が求められることとなった。
もはや処罰の厳罰化だけで
民衆の反動に対応できる状況でなくなっていた。
そのような背景の元、寛政の改革は始まった。
民衆蜂起の再発防止と、
そのための本百姓体制の再建を図るべく、
解体する農村の復興や暮らしに困る人々に対する
福祉政策、財政再建の為の即効性のある緊縮政策を行い、為政者と財産のある富裕層の連携の元、
改革を実施していくこととなる。