2020/08/18
日本武尊(ヤマトタケル)
8月18日
火曜日
日本武尊(ヤマトタケル)
110年8月18日
(景行天皇40年7月16日)
景行天皇が日本武尊に東夷討伐を命じる。
ヤマトタケル(生年不詳 - 景行天皇43年)は、
記紀などに伝わる古代日本の皇族(王族)。
『日本書紀』では主に
「日本武尊(やまとたけるのみこと)」、
『古事記』では主に
「倭建命(やまとたけるのみこと)」と表記される。
現在では、
漢字表記の場合に一般には
「日本武尊」の用字が通用される。
第12代景行天皇皇子で、
第14代仲哀天皇の父にあたる。
熊襲征討・東国征討を行ったとされる
日本古代史上の伝説的英雄である。
『古事記』では、
倭建命の曾孫(ひまご)の迦具漏比売命が
景行天皇の妃となって
大江王(彦人大兄)をもうけるとするなど矛盾があり、
このことから景行天皇とヤマトタケルの
親子関係に否定的な説がある。
また、
各地へ征討に出る雄略天皇などと
似た事績があることから、
4世紀から7世紀ごろの
数人のヤマトの英雄を統合した
架空の人物という説もある。
2020/08/17
自転車屋の生き物歳時記 シオカラトンボ
8月17日
月曜日
自転車屋の生き物歳時記
シオカラトンボ
先週の沢歩きでは
久しぶりに
シオカラトンボを見ました。
子供の頃は
ウチの近所にも良くいたんやけどな。
シオカラトンボ
(塩辛蜻蛉、Orthetrum albistylum speciosum)は、
湿地帯や田などに生息する中型のトンボである。
日本全土のほか、
ロシア(極東)、中国、韓国、台湾などに分布する。
平地の湿地やため池にいるごく普通な種で、
市街地などにも広く見られるため、
日本では最もよく親しまれているトンボの一つである。
体長50~55mm、
後翅の長さは43mm前後の中型のトンボ。
雌雄で大きさはあまり変わらないが、
老熟したものでは雄と雌とで体色が著しく異なっている。
雄は老熟するにつれて体全体が黒色となり、
胸部から腹部前方が灰白色の粉で覆われるようになって ツートンカラーの色彩となる。
この粉を塩に見立てたのが名前の由来である。
塩辛との関係はない。
雌や未成熟の雄では
黄色に小さな黒い斑紋が散在するので、
ムギワラトンボ(麦藁蜻蛉)とも呼ばれる。
稀に雌でも粉に覆われて
"シオカラ型"になるものもあるが、
複眼は緑色で、複眼の青い雄と区別できる。
幼虫は一般にヤゴとも呼ばれ、
終齢幼虫の体長は20~25mm程度、
腹部背面には
他のトンボ科のヤゴにしばしば見られる背棘
(はいきょく:各節中央にある棘)が全くない。
概形は
一見オニヤンマの小型のヤゴにも似るが、
腮(あご)の合わせ目のギザギザが小さく、
手で掴んでもオニヤンマのヤゴのように
腹部末端を反り上げて刺そうとするような行動もしない。
主として
平地から低山地帯までの標高の低い場所に生息し、
どちらかと言えば開けた環境を好む。
自然の池沼や流れの緩い小河川のほか、
水田や公園の池など人工の水域にも住むため、
市街地でもよく見られる。
他のトンボ同様、成虫・幼虫とも肉食で、
小型の昆虫をよく喰う。
幼虫は10齢以上を経て羽化するものと推定され、
1年に2世代を営むと考えられている。
幼虫で越冬し、
羽化は春から初秋まで連続的に見られ、
水面から出た植物の茎、杭、護岸の壁面などで行われる。
本州では
4月中旬頃から成虫が現れて10月頃まで見られるが、
暖かい沖縄では2月末頃から成虫が出現する。
成熟した雄は縄張りを占有し、
草上などに静止して警戒する。
交尾は草や地面の上で行われ、
その後は雄の警護下で雌が単独で産卵する。
この雄の警護は、
交尾相手の雌が産卵を終えるまでの間に
他の雄と交尾するのを防止する
適応的意義が大きいと考えられている。
シオカラトンボの雄は
多くのトンボと同様に交尾時に前に
その雌と交尾した雄の精子が
産卵時に受精に与るのを防ぐ操作を行うことが
知られているが、
カワトンボ類で知られているように
貯精嚢内の精子の掻き出しを行うのではなく、
奥に押し込むことで出口から遠ざける。
産卵は水面の上にホバリングしながら、
腹部末端で水面をノックするようにして行われる。
この行動は、
平らで光を反射する面に対する反応として行われるため、たまには車のボンネットや、
あるいは和室に飛び込んできて
畳の面でこれを行うのを見ることがある。
2020/08/17
後白河法皇
8月17日
月曜日
後白河法皇
1183年8月17日
(治承7年/寿永2年7月28日)
後白河法皇が平家追討の院宣を下す。
後白河天皇(ごしらかわてんのう)
1127年10月18日〈大治2年9月11日〉
~1192年434月26日〈建久3年3月13日〉)は、
日本の第77代天皇
(在位: 1155年8月23日
〈久寿2年7月24日〉~1158年9月5日
〈保元3年8月11日〉)。
諱は雅仁(まさひと)。
鳥羽天皇の第四皇子として生まれ、
異母弟・近衛天皇の急死により皇位を継ぎ、
譲位後は34年に亘り院政を行った。
その治世は
保元・平治の乱、治承・寿永の乱と戦乱が相次ぎ、
二条天皇・平清盛・木曾義仲との対立により、
幾度となく幽閉・院政停止に追い込まれるが
そのたびに復権を果たした。
政治的には定見がなく
その時々の情勢に翻弄された印象が強いが、
新興の鎌倉幕府とは
多くの軋轢を抱えながらも協調して、
その後の公武関係の枠組みを構築する。
南都北嶺といった
寺社勢力には厳しい態度で臨む反面、
仏教を厚く信奉して
晩年は東大寺の大仏再建に積極的に取り組んだ。
和歌は不得手だったが
今様を愛好して『梁塵秘抄』を撰するなど
文化的にも大きな足跡を残した。