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2020/08/31

方広寺の鐘銘事件

8月31日
月曜日

方広寺の鐘銘事件

1614年8月31日
(慶長19年7月26日)

徳川家康が、
豊臣秀頼が再建した方広寺の鐘の
「国家安康」の文字に言いがかりをつけ
落慶法要を延期させる。

大坂冬の陣のきっかけに。

方広寺(ほうこうじ)は、
京都市東山区にある天台宗の寺院。

通称は「大仏」または「大仏殿」。

豊臣秀吉が発願した
大仏(盧舎那仏)を安置するための寺として
木食応其によって創建された。

慶長13年(1608年)より
片桐且元を奉行として再建が開始され、
慶長15年(1610年)6月に地鎮祭、
同年8月に立柱式が実施されて、
慶長17年(1612年)には大仏殿と大仏が完成した。

続いて大仏は金箔を押す作業に入る。

慶長19年(1614年)には梵鐘が完成し、
徳川家康の承認を得て、
開眼供養の日を待つばかりとなった。

ところが家康は
同年7月26日に開眼供養の延期を命じる。

上記の梵鐘の銘文
(東福寺、南禅寺に住した禅僧文英清韓の作)のうち
「国家安康」「君臣豊楽」の句が
徳川家康の家と康を分断し豊臣を君主とし、
家康および徳川家を冒瀆するものとみなされ、
最終的には大坂の陣による
豊臣家の滅亡を招いてしまったとされる
(方広寺鐘銘事件)。

なおこの事件を
徳川方の言いがかりとする見方がある一方で、
「姓や諱そのものに政治的な価値を求め、
賜姓や偏諱が盛んに行なわれた武家社会において、
銘文の文言は、
徳川に対して何らの底意を持たなかったとすれば
余りにも無神経。

むろん意図的に用いたとすれば
政局をわきまえない無謀な作文であり、
必ずしも揚げ足をとってのこじつけとは言えない。

片桐且元ら
豊臣方の不注意をせめないわけにはいかない」
とする指摘もある。

方広寺の鐘銘事件

2020/08/31

蓬山渓 沢歩き

8月30日
日曜日

KOBEおーるエンジョイ倶楽部

神鉄有馬口駅~蓬山渓~唐櫃台駅

沢歩き

8月9日にも
行きましたが
前回は
副会長が行けなかったので
リベンジ沢歩き

上流土砂崩れでもあったのかな⁉️

三週間前は出来た
天然の然の滝の滑り台

滝壺が砂で埋もれて
滑り台が出来ませんでした😞

蓬山渓  沢歩き

2020/08/29

和銅開珎

8月29日
土曜日

和銅開珎

708年8月29日
(和銅元年8月10日)

日本初の銅銭「和同開珎」を発行。

和同開珎(わどうかいほう、わどうかいちん)は、
708年8月29日(和銅元年8月10日)に、
日本で鋳造・発行された銭貨である。

日本で最初の流通貨幣と言われる。

皇朝十二銭の1番目にあたる。

直径24mm前後の円形で、
中央には一辺が約7mmの正方形の穴が開いている
円形方孔の形式である。

表面には、
時計回りに和同開珎と表記されている。

裏は無紋である。

形式は、
621年に発行された唐の開元通宝を模したもので、
書体も同じである。

律令政府が定めた通貨単位である1文として通用した。

当初は1文で米2kgが買えたと言われ、
また新成人1日分の労働力に相当したとされる。

現在の埼玉県秩父市黒谷にある和銅遺跡から、
和銅(にきあかがね、
純度が高く精錬を必要としない自然銅)が
産出した事を記念して、
「和銅」に改元するとともに、
和同開珎が作られたとされる。

ただし、
銅の産出が祥瑞とされた事例はこの時のみであり、
和同開珎発行はその数年前から計画されており、
和銅発見は
貨幣発行の口実に過ぎなかったとする考え方もある。

唐に倣う目的もあった。

708年5月には銀銭が発行され、
7月には銅銭の鋳造が始まり、
8月に発行されたことが続日本紀に記されている。

銀銭が先行して発行した背景には
当時私鋳の無文銀銭が都で用いられていたのに対応して
私鋳の無文銀銭を
公鋳の和同開珎の銀銭に切り替える措置が
必要であったからと言われている。

しかし、銀銭は翌年8月に廃止された。

和同開珎には、厚手で稚拙な「古和同」と、
薄手で精密な「新和同」があり、
新和同は銅銭しか見つかっていないことから、
銀銭廃止後に発行されたと考えられる。

古和同は、和同開珎の初期のものとする説と、
和同開珎を正式に発行する前の私鋳銭
または試作品であるとする説がある。

古和同と新和同は成分が異なり、
古和同はほぼ純銅である。

また両者は書体も異なる。

古和同はあまり流通せず、出土数も限られているが、
新和同は大量に流通し、出土数も多い。

ただし、
現在、古銭収集目的で取引されている和銅銭には
贋作が多いので注意を要する。

当時の日本は
まだ米や布を基準とした物々交換の段階であり、
和同開珎は、
貨幣としては畿内とその周辺を除いて
あまり流通しなかったとされる。

また、銅鉱一つ発見されただけで
元号を改めるほどの国家的事件と捉えられていた
当時において大量の銅原料を確保する事は困難であり、
流通量もそれほど多くなかったとの見方もある。

更に地方財政(国衙財政)が
一貫して穎稲を基本として組まれていることから、
律令国家は農本思想の観点から
通貨の流通を都と畿内に限定して
地方に流れた通貨は
中央へ回収させる方針であったとする説もある。

それでも地方では、
富と権力を象徴する宝物として使われた。

発見地は全国各地に及んでおり、
渤海の遺跡など、
海外からも和同開珎が発見されている。

発行はしたものの、
通貨というものになじみのない
当時の人々の間でなかなか流通しなかったため、
政府は流通を促進するために税を貨幣で納めさせたり、
地方から税を納めに来た旅人に
旅費としてお金を渡すなど様々な手を打ち、
711年(和銅4年)には蓄銭叙位令が発布された。

これは、
従六位以下のものが十貫(1万枚)以上
蓄銭した場合には
位を1階、二十貫以上の場合には
2階進めるというものである。

しかし、
流通促進と蓄銭奨励は矛盾しており、
蓄銭叙位令は銭の死蔵を招いたため、
800年(延暦19年)に廃止された。

政府が定めた価値が
地金の価値に比べて非常に高かったため、
発行当初から、
民間で勝手に発行された私鋳銭の横行や
貨幣価値の下落が起きた。

これに対し律令政府は、
蓄銭叙位令発布と同時に私鋳銭鋳造を厳罰に定め、
首謀者は死罪 、従犯者は没官、家族は流罪とした。

しかし、
私鋳銭は大量に出回り、貨幣価値も下落していった。

760年(天平宝字4年)には万年通宝が発行され、
和同開珎10枚と
万年通宝1枚の価値が同じものと定められた。

しかし、
形も重量もほぼ同じ銭貨を
極端に異なる価値として位置づけたため、
借金の返済時などの混乱が続いた。

神功開宝発行の後、
779年(宝亀10年)に
和同開珎、万年通宝、神功開宝の3銭は、
同一価を持つものとされ、以後通貨として混用された。

その後、
延暦15年(796年)に4年後をめどに
和同開珎、万年通宝、神功開宝の3銭の流通を
停止する詔が出されたものの、
実際に停止できたのは
大同2年(807年)のことであり、
それも翌年には取り消された。

また、
延暦15年の詔では全ての貨幣を
隆平永宝に統一する方針が出され、
そのための材料として回収された3銭が鋳潰された。

和同開珎が流通から姿を消したのは
9世紀半ばと推定されている。

和銅開珎