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2020/09/04

くじらの日

9月4日
金曜日

くじらの日

鯨類などの試験研究などを行う
一般財団法人日本鯨類研究所が制定。

鯨と日本人の共生を考えることが目的。

日付は9と4で「くじら」と読む語呂合わせから。

クジラ(鯨、whale)は、
哺乳類のクジラ目、
あるいは鯨偶蹄目の鯨凹歯類に属する
水生動物の総称であり、
その形態からハクジラとヒゲクジラに大別される。

ハクジラの中でも
比較的小型(成体の体長が4m前後以下)の種類を
イルカと呼ぶことが多いが、
この区別は分類上においては明確なものではない。

日本やインドネシア、フィリピン、
ノルウェー、アイスランドなど、
古くからクジラから採取した
肉や皮を食べる習慣がある国や地域が存在する。

また、
鯨骨は狩猟具として加工利用され、
ヒゲクジラ類の鯨ひげは
工芸などの分野で盛んに用いられ、
釣竿の先端部分、ぜんまいなどに利用された。

捕鯨と鯨食は
我が国の
古来からの伝統と文化です‼️

捕鯨と鯨食に反対する国や団体は
断固反対します‼️

くじらの日

2020/09/03

自転車屋の生き物歳時記 シオヤアブ

9月3日
木曜日

自転車屋の生き物歳時記

シオヤアブ

先日の蓬山渓の沢歩きで
スズメバチやオニヤンマでも襲うと言われる
狂暴なアブの王者
シオヤアブを目撃した。

前回の沢歩きでは
アブには何ヵ所も刺されて
1週間以上痒かったので
今回は虫を寄せ付けないと言う
ハッカ油スプレーを持参。

お陰で
アブに刺されずに済みました😅

シオヤアブ(塩屋虻、Promachus yesonicus)は、
ハエ目(双翅目)
ムシヒキアブ科に属する昆虫の1種。

北海道から沖縄まで日本各地に分布する。

成虫の体長は約23~30mm、
オスの腹部先端には白い毛が密集しているが、
メスには無い。

幼虫、成虫ともに捕食性で、
特に成虫はコウチュウ目やチョウ目など
幅広い昆虫を獲物とし、
スズメバチやオニヤンマなどを襲うこともある。

自転車屋の生き物歳時記  シオヤアブ

2020/09/03

千姫

9月3日
木曜日

千姫

1603年9月3日
(慶長8年7月28日)

徳川家康の孫で7歳の千姫が、
11歳の豊臣秀頼に輿入れ。

千姫(せんひめ)は、
安土桃山時代から江戸時代の女性。

豊臣秀頼・本多忠刻の正室。

父は徳川秀忠、母は継室の江。

号は天樹院。

慶長2年(1597年)4月11日
秀忠と江の長女として、
山城国伏見城内の徳川屋敷で産まれる。

慶長8年(1603年)に7歳で秀頼と結婚し、
乳母の刑部卿局とともに大坂城に入る。

慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では、
祖父・徳川家康の命により
落城する大坂城から救出される。

その後、
秀頼と側室の間の娘・天秀尼が
処刑されそうになった時に、
千姫は彼女を自らの養女にして命を助ける
(秀頼と淀殿に対する助命嘆願は聞き届けられなかった)。

元和2年(1616年)、
桑名藩主・本多忠政の嫡男・本多忠刻と結婚。

この時、
津和野藩主・坂崎直盛が輿入れの行列を襲って
千姫を強奪する計画を立てていることが発覚し、
直盛は家臣により殺害され、
それを直盛が自害したように見せかけたが、
坂崎家は改易処分となった(千姫事件)。

同年9月26日に桑名城に着いた。

この時に
10万石の化粧料を与えられたといわれる。

翌元和3年(1617年)、
本多家が播磨姫路に移封になった時には、
8月28日に桑名を発って姫路城に移り、
播磨姫君と呼ばれるようになる。

翌元和4年(1618年)には長女・勝姫
(池田光政正室、池田綱政生母)、
元和5年(1619年)には長男・幸千代が生まれた。  

しかし、
元和7年(1621年)に
幸千代が3歳で没したのを始め、
寛永3年(1626年)には
夫・忠刻、姑・熊姫、母・江が
次々と没するなど不幸が続き、
本多家を娘・勝姫と共に出ることとなった。

江戸城に入り、出家して天樹院と号す。

出家後は娘と2人で竹橋御殿で暮らした。

寛永5年(1628年)に
勝姫が父・秀忠の養女として池田光政の元へ嫁ぎ、
一人暮らしとなる。

池田家に嫁いだ一人娘のことを心配し、
「天樹院書状」を送っている。

寛永9年(1632年)、父・秀忠が薨去。 

寛永16年(1639年)、
光政と勝姫の嫡男・池田綱政(千姫の外孫)が誕生した。

寛永20年(1643年)、
鎌倉の東慶寺の伽藍を再建する。

正保元年(1644年)には
弟・徳川家光の厄年を避けるために
江戸城から移った家光の側室・夏(後の順性院)と
その後生まれた家光の三男・綱重と暮らすようになる。

綱重を養子にすることで
大奥に対して大きな発言権を持つようになり、
4代将軍家綱の時代になっても
大奥の最高顧問的な権威をもっていた。

寛文5年(1655年)の
越前松平家(福井藩主・松平光通)の婚姻に関して、
嫁側である越後高田藩の勝姫
(千姫の妹、越後高田藩主・松平光長の母)
に依頼されて、幕府に対して介入を行った。

明暦3年(1657年)の
明暦の大火で竹橋の邸が焼失した時には、
叔父の徳川頼宣(紀州藩主)の屋敷に一時寄留する。

寛文6年(1666年)2月6日、江戸で死去。

享年70。

亡くなった夜、
曾祖母於大の方の菩提寺である小石川伝通院に納められ、導師知鑑(知恩院37世)により葬儀が行なわれた。

墓所は伝通院と茨城県常総市の天樹院弘経寺にあり、
また徳川家(松平家)が
三河時代から帰依していた浄土宗の総本山である
京都の知恩院に、定例により分骨され宝塔に納められた。

知鑑は後に位牌や遺物を祭るため、
伊勢に寂照寺を開いた。

戒名は「天樹院殿栄譽源法松山禅定尼」。

千姫