2020/09/08
サンフランシスコ平和条約
9月8日
火曜日
1951年(昭和26年)9月8日
サンフランシスコ平和条約・日米安全保障条約調印。
サンフランシスコ平和条約において
我が国の独立を最大限に後押ししてくれた
スリランカこそ
我が国の真の友好国である事を
日本人は決して忘れてはいけません。
演説をするセイロン(現スリランカ)代表
J.R.ジャヤワルダナ氏
賛同を勧誘されている平和条約草案について、
セイロン国政府の見解を、
この51か国の集会前に提出する機会を与えられましたことを、私は大いなる特典と考えます。
私の声明は我国が本条約を受け入れる諸理由から
成り立っていますが、
本条約に対して向けられた
いくらかの批判を反ばくする企てもあります。
もっとも私は、
私の国の政府を代表してのみ
話すことが出来るわけですが、
然し日本の将来に対して
一般的態度の中でのアジアの諸国民の感情を、
私は表明出来ると主張します。
私は現在、
会議で考慮中の条約の最終草案の公式化にまで
持って行った出来事について、語る必要はありません。
アメリカ代衣ダレス氏と
イギリス代表ケンネス・ヤンガー氏は、
1945年8月の日本の降伏文書協定から始めて、
それ等の出来事を詳細に且つ丁寧に我々に示されました。
然しながら、
次の事柄は述べて置いてもよいと思います。
即ち、本条約の草案を採用すべきであるという
手続きに関しては、
四大強国の間で探刻な意見の衝突があったことを
述べて置いてもよいと思うのです。
ソ連は、四大強国だけが、
即ちアメリカ、イギリス、中国及び
ソ連の外相会議だけが、
それを引き受けるべきであると主張し、
そして若し条約草案作成のために
他の国々が加入するのであれば、
拒否権を保留されなければならないと主張しました。
イギリスは、
自治領は相談を受けるべきであると主張し、
アメリカはこれに賛同しました。
両国は又、対日戦争に参戦した
すべての国々と相談することを支持しました。
これ等の諸国の間では又、違った考慮から、
条約の実際の条件に関する意見の相違がありました。
ある国は新しい軍国主義的日本の台頭を恐れ、
他の国は日本の侵略によって生じた災害と恐怖を
忘れ兼ねて、意見がわかれました。
敢えて意見として述べますが、
完全に独立した日本のための主張が
はじめて提出され、考慮されたのは、
1950年1月に開催された
連邦外相のコロンポ会絨に於いてでありました。
このコロンボ会議は、
日本を孤立させたケースとして考えるのではなく、
南アジア及び東南アジアとして知られている地域の
一員として考えられました。
世界の富と人口の大部分を含み、
最近になって漸く自由を回復した国々からなる
南アジアと東南アジア、
それ等の国々の諸国民は数世紀なおざりにされた結果、
今尚苦しんでいます。
この会議から二つのアイディアが浮かびあがりました。
一つは独立国日本のそれであり、
他方は南アジア、東南アジア諸国民の経済的、
社会的開発の必然性で、
それを確保するためにコロンボ計画として
現在知られている計画が着手されました。
ケンネス・ヤンガー氏は、
コロンボ会議の後に連邦諸国長官の運用委員会が
条約草案の仕事にかかった経過を説明され、
そしてその後にアメリカ代表ダレス氏と
相談されたことを説明されました。
今我々の前にある条約は、
これ等の協議と折衝の成果であります。
私の政府の見解の或る部分がそこに主張されていますが、私の政府の見解でないものも主張されています。
私は現時点に於いて、
日本と進んで和平を討議したいとする
諸国の聞で達成出来る
同意の最大の共通な尺度を告げていると、
私は主張します。
日本に対する態度に於いて、
セイロン、インド、そしてパキスタン等のアジア諸国は、日本は自由でなければならないという
最大の考えによって動きました。
本条約は
その考えを完全に具現していると私は主張します。
日本の自由という事柄について
付帯的な他の問題があります。
即ち自由は
本州、北海道、九州、四国の主要の島々に
限定されるべきであるか、
或いは近隣のいくつかの小さい島々にまで
広げるべきであるか。
若しそうすべきでないのなら、
これ等の島々は如何にするべきか。
台湾は
1943年のカイロ宣言に従って
中国に返還されるべきか。
若しそうすべきであるのなら、
中国のどちらの政府へ?
中国は平和条約会議へ招くべきか。
若しそうであるのなら、どちらの政府を?
賠償は日本から強要するべきか。
若しそうなら金額は。
日本が自国の防衛を組織するまでは、
どの様にして自らを防衛するのか。
日本の自由という中心問題について、
我々は究極には同意することが出来ました。
そして条約はその同意を具現しています。
他の問題については際立った意見の相違がありましたが
条約は大多数の見解を具現しました。
若しこれ等の諸問題の或るものが
違った方法で解かれていたら、
私の政府はその方を好んだでありましょう。
然し大多数が我国に同意しないという事実は、
自由と独立した日本の中心概念を含む本条約に、
我国が調印するのを控える理由にはなりません.
最初に私が言及しました関連のある事柄は、
日本が自由になれば解決不可能ではありませんが、
日本が自由にならなければ解決不可能であると
我国は思います。
自由の日本は、
例えば国連組織を通じてこれ等の問題を
世界の他の自由諸国と討議することが出来、
早目に満足すべさ決議に到達出来ましょう。
本条約に署名することにより、
我々は日本をしてそうすることが出来るようにさせます。
即ち日本が中国を承認すると決定するならば、
中国政府と友好条約を結ぷことが出来るようにと、
そして日本をして
印度と平和友好条約を結ぶことが出来るようにさせると
私が述べるのは、大変嬉しいことであります。
若し我々が本条約に調印しなければ
これ等起こり得ることは、
何れも起こり得ないでありましょう。
何故アジアの諸国民は、
日本は自由であるべきだと切望するのでしょうか。
それは我々の日本との
永年に亘るかかわり合いの故であり、
又アジア諸国民が日本に対して持っていた
高い尊敬の故であり、
日本がアジア緒国民の中でただ一人強く自由であった時、我々は日本を保護者として又友人として仰いでいた時に、日本に対して抱いていた高い尊敬の為でもあります。
私は、この前の戦争の最中に起きたことですが、
アジアの為の共存共栄のスローーガンが
今問題となっている諸国民にアピールし、
ビルマ、インド、インドネシアの指導者の或人達が
そうすることによって
自分達が愛している国が開放されるという希望から 日本の仲間入りをした、という出来事が思い出されます.
セイロンに於ける我々は、
幸い侵略を受けませんでしたが、
空襲により引き起された損害、
東南アジア司令部に属する大軍の駐屯による損害、
並びに我国が連合国こ供出する
自然ゴムの唯一の生産国であった時に於ける、
我国の主要産物のひとつである
ゴムの枯渇的樹液採取によって生じた損害は、
損害賠償を要求する資格を我国に与えるものであります。
我国はそうしようとは思いません。
何故なら我々は大師の言葉を信じていますから。
大師のメッセージ、
「憎しみは憎しみによっては止まず、ただ愛によってのみ止む」はアジアの数え切れないほどの人々の生涯(生活)を高尚にしました。
仏陀、大師、仏教の元祖のメッセージこそが、
人道の波を南アジア、ビルマ、ラオス、カンボジア、
シャム、インドネシアそれからセイロンに伝え、
そして又北方へはヒマラヤを通ってチベットへ、
支那へそして最後には日本へ伝えました。
これが我々を数百年もの間、
共通の文化と伝統でお互いに結びつけたのであります。
この共通文化は未だに在続しています。
それを私は先週、
この会議に出席する途中日本を訪問した際に
見付けました。
又日本の指導者達から、大臣の方々からも、
市井の人々からも、寺院の僧侶からも、
日本の普通の人々は今も尚、
平和の大師の影の影響のもとにあり、
それに従って行こうと願っているのを見いだしました。
我々は日本人に機会を与えて上げねばなりません。
そうであるから我々は、
ソ連代表の云っている、
日本の自由は制限されるべきであるという見解には
賛同出来ないのです。
ソ連代表が加えようと欲する制約、
例えば日本が自由の国であれば当然そうする資格のある
国防軍を維持する権利に加える制限といったもの、
そして、彼が提議する他の制限は、
現在ここの会場に居られる代表の大多数の方々にとって
受け人れ難いものにするばかりでなく、
この会議に出席されなかった国々の中の或国、
特にこの条約のありありと心に描くところより
更に進んだ所へ行きたい印度にとってさえも、
受け入れることが出来ないものにします。
若し再びソ連が
カイロとポツダム宣言に反して、
日本へ返還した琉球諸島と小笠原諸島を欲しがるのなら、それでは何故南樺太は、
千鳥列島もまた日本へ返還されないのか?
私は興味をもって、次の事に注目します。
即ちソ連の修正案は、
日本国民に基本的表現の自由、新聞及び
宗教礼拝の出版の自由、政治上の見解の自由、
及び公開の集会の自由を
保証しようと要求しています。
ソ連の国民自身でさえも所有し享有したいと
心から執着したいであろう自由をです。
日本の国際社会復帰を話し合う、講和会議であったが、
ソ連の執拗な反対工作に会い、
日本の分断、主権の制限、高額な賠償金が
俎上にのせられ、会議の前途は暗澹としていた。
そんな中、強い決意を胸に秘め、
J.R.ジャヤワルダナ氏は話し始めた。
各国が自国の利害を考え、駆け引きを繰り返す中、
全く、と言っていいぐらい利害のない
「日本」に対して、むしろ日本軍の空襲をうけ、
被害を受けた国の代表でありながら、
日本を擁護する演説を続けた。
敗戦国に対して、
利害を超えて「尊敬」と「共感」を表明し、
日本の独立を強く支持する
J.R.ジャヤワルダナ氏の言葉に、会場はうち静まった。
アジア諸国に流れる共通の思想、
仏教を引用し日本への賠償請求放棄を呼びかけた。
これにより、
多くのアジア諸国が日本との関わりと、恩恵を想起し、
また、日本人は同じ肌の色をしたアジア民族であり、
日本が戦ったのはアジア人を搾取した
白人国家だったのだと再認識させることで
アジアの一体感を呼び覚ましたのだ。
欧米諸国の代表にも、
その博愛と寛容の精神は静かな感動を与えた。
J.R.ジャヤワルダナ氏の演説が終わると、
万雷の拍手が沸き起こった。
彼のこの演説が、講和会議の流れを変え、
日本の国際社会復帰を大きく後押ししたのである。
日本は
ソ連、ポーランド、チェコスロバキアを除く
48ヶ国と講和を結び、国際社会復帰を果たした。
2020/09/07
自転車屋の生き物歳時記 アキアカネ
9月7日
月曜日
自転車屋の生き物歳時記
アキアカネ
今朝
アキアカネが30匹ぐらい
群れて飛んでいるのを見かけた。
いわゆる
赤トンボですわ❗
近年
大群で飛ぶのを見なかったので
ええもんを見させて貰った。
しかし
近年は真っ赤なアキアカネはいないな⁉️
アキアカネ
(秋茜、学名:Sympetrum frequens (Selys, 1883))は、
トンボ科アカネ属に分類されるトンボの一種。
日本では普通に見られる。
俗に赤とんぼと呼ばれ、
狭義にはこの種だけを赤とんぼと呼ぶことがある。
季節的な長距離移動がよく知られている。
日本特産種で、
大陸部では
極東アジアからヨーロッパにかけて広く分布する
近縁種であるタイリクアキアカネ
S. depressiusculum (Selys, 1841)と置換する。
タイリクアキアカネは、
秋の後半に北西の季節風が吹き出す頃に、
日本列島に吹き寄せられたものが各地で記録されるが、
繁殖はしていないようで幼虫の発見例はない。
同様に
人里でよく知られた赤とんぼにはナツアカネ
S. darwinianum (Selys, 1883)がある。
アキアカネは夏に一旦低地から姿を消し、
秋に成熟成虫が大挙して出現するのに対して、
ナツアカネは生活史を通じて低地から姿を消さない。
そのために
夏にも低地で見られる方に
ナツアカネの和名が与えられたのであり、
活動時期自体は両種にほとんど差はない。
ロシア、中国、朝鮮半島、日本に分布する。
平地から山地にかけて、
水田、池、沼、湿地などに生育する。
底質は泥で、汚れた水質の環境に生育することが多い。
平地で孵化した未熟な成虫は夏に涼しい山地へ移動し、
成熟し秋になると平地に戻る。
日本では
小笠原諸島、沖縄県を除き各地に広く分布し、
奄美大島では過去に確認記録がある。
朝鮮半島から
タイリクアキアカネに混じって
朝鮮半島タイプのアキアカネの飛来が確認されている。
全長は
オスが32~46mm、メス:33~45 mm。
腹長は
オスが19~29mm、メス:21~32mm。
後翅長は
オスが25~34mm、メス:26~34mm。
オスは
腹部第2節の下部に副性器(2次生殖器)があり、成熟すると腹部が赤くなる。
メスは腹部が淡褐色のものと背面が赤いものがある。
顔面はオスが橙褐色で、メスが黄褐色。
オスは成熟しても頭部と腹部は赤くならない。
複眼は大きく、左右がくっ付き合って一続きとなり、
顔面の黒条の凹凸が目立たない個体が多い。
オスは
第10節に連結交尾の際に
メスを捕獲するための尾部付属器があり、
メスには第8節下部に小さな生殖弁がある。
終齢幼虫に
達した段階のヤゴの体長は16~20mm、
頭幅は6・5~8mm。
背棘が第4~8節にあり、側棘が第8~9節にある。
1990年代後半から
日本各地でアキアカネの個体数が激減している。
その原因は
イネ苗といっしょに水田に持ち込まれる
農薬の箱処理剤とみられている。
1993年からイミダクロプリド、
1996年からフィプロニルが箱処理剤として
全国的に出荷されている。
フィプロニルは
アキナカネの幼虫の致死率を高めることが
実験的に確認されていて、
北陸地方におけるフィプロニルの出荷量変化と
アキアカネやノシメトンボの
個体数減少との間に相関があることも確認されている。
日本の以下の都道府県で、
レッドリストの指定を受けている[16]。
絶滅危惧II類(VU)- 長崎県
分布特性上重要 - 鹿児島県
2020/09/07
光明皇后
9月7日
月曜日
光明皇后
729年9月7日
(天平元年8月10日)
藤原不比等の娘・光明子(後の光明皇后)が
聖武天皇の妃となる。
初の皇族以外の皇后。
光明皇后(こうみょうこうごう)
701年9月7日(大宝元年 )
~760年7月23日〈天平宝字4年6月7日〉)は、
日本の第45代天皇・聖武天皇の皇后。
諱は安宿媛(あすかべひめ)。
正式な尊号は
天平応真仁正皇太后
(てんぴょうおうしんにんしょうこうたいごう)。
通称に光明子(こうみょうし)、
藤三娘(とうさんじょう)がある。
藤原不比等と県犬養橘三千代の女子で、
聖武天皇の母である藤原宮子は異母姉。
皇族以外から立后する先例を開いた。
聖武天皇の皇太子時代に結婚し、
養老2年(718年)、
阿倍内親王(後の孝謙・称徳天皇)を出産。
神亀元年(724年)、
夫の即位とともに後宮の位階である夫人号を得る。
神亀4年(727年)、基王を生んだ。
神亀5年(728年)、
皇太子に立てられた基王が夭折したため
後継を争って長屋王の変が起こるなど紛糾した。
長屋王の変後、
天平元年(729年)に皇后にするとの詔が発せられた。
これは王族以外から立后された初例である。
以後、藤原氏の子女が皇后になる先例となった。
娘である阿倍内親王の立太子、
およびその後の孝謙天皇としての即位
(天平勝宝元年(749年))後、
皇后宮職を紫微中台と改称し、
甥の藤原仲麻呂を長官に任じてさまざまな施策を行った。
天平勝宝8年(756年)、
夫の聖武太上天皇が崩御。
その2年後には
「天平応真仁正皇太后」の尊号が贈られた。
天平宝字4年(760年)に崩御、
佐保山東陵に葬られた。
光明皇后は
仏教に篤く帰依し、東大寺、国分寺の設立を
夫に進言したと伝えられる。
また貧しい人に
施しをするための施設「悲田院」、
医療施設である「施薬院」を設置して慈善を行った。
夫の死後四十九日に
遺品などを東大寺に寄進、
その宝物を収めるために正倉院が創設された。
さらに、
興福寺、法華寺、新薬師寺など
多くの寺院の創建や整備に関わった。