2020/09/18
カップヌードルの日
9月18日
金曜日
カップヌードルの日
1971年(昭和46年) 9月18日
日清食品が
世界初のカップ麺「カップヌードル」を発売。
カップヌードル
(英語: Cup Noodles、和製英語: Cup Noodle)は、
日清食品が1971年(昭和46年)
9月18日から発売しているカップ麺
(中華麺・和風麺)、およびカップライス、
冷凍ライスのブランド。
親会社である
日清食品ホールディングスの登録商標。
1966年(昭和41年)
安藤がチキンラーメンの日本国外進出を目指して
アメリカ・ロサンゼルスの
スーパーマーケットに売り込んだものの、
アメリカには手近に箸や丼がないことに気づかされる。
そして、
アメリカ人バイヤーが考えた末に
チキンラーメンを砕いて紙コップに入れ、
これに熱湯を注いで
フォークで食べたことがヒントになった。
安藤は
ラーメンが丼と箸という枷を逃れて
日本国外進出する事を見据え、
いつでもどこでも食べられる
容器入りのインスタントラーメンの開発を思い立った。
早速
売り込みから戻った安藤はホテル内で試したが、
当時の紙コップはロウを用いた
パラフィン紙製だったこともあり、
「紙コップ臭くておいしく食べられなかった」
と後に述べているこのことから、
後に『環境ホルモン報道問題』による影響から
他社のカップ麺容器が
紙コップ製に置き換えられた時期でも、
本製品のカップ素材は
発泡スチロール製のまま長らく変更されなかった。
ちなみに、
食品衛生基準が厳しいドイツでは
陶製の容器で販売されて価格が高かった。
また、
日本向け製品で用いられている
アルミ箔と紙を貼り合わせた構造の密封性の高いフタは、安藤が
アメリカから帰国する際の機内食で出された
マカダミアナッツの密封パックで使われていたものを
ヒントにしている。
安藤は
このパックを開封したものに加え、
未開封のものを別に1つもらって持ち帰り、
容器の開発時の資料とした。
その現物は今も日清食品で保管されている。
2020/09/18
シーボルト事件
9月18日
金曜日
シーボルト事件
1828年9月18日
(文政11年8月10日)
シーボルトが、
幕府禁制品の日本地図などを持ち出そうとしたことが、 船の座礁により発覚。
出国停止、
および1年の取調べの後追放処分。
シーボルト事件(シーボルトじけん)は、
江戸時代後期の1828年に
フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトが
国禁である日本地図などを
日本国外に持ち出そうとして発覚した事件。
役人や門人らが多数処刑された。
1825年には異国船打払令が出されており、
およそ外交は緊張状態にあった。
江戸で
高橋景保が逮捕され、
これを受けてシーボルトへ高橋より送った
「日本地図其の他、シーボルト所持致し居り候」ため、
シーボルトの所持する日本地図を
押収する内命が長崎奉行所にもたらされ、
出島のシーボルトは訊問と家宅捜索をうけた。
軟禁状態のシーボルトは
研究と植物の乾燥や動物の剥製つくりをしてすごしたが、今までの収集品が無事
オランダやバタヴィアに搬出できるかどうか心配であり、コレクションの中には個人的に蒐集していた
標本や絵画も所有しており、
これが彼一人の自由には出来なくなっていた。
シーボルトは
訊問で科学的な目的のためだけに情報を求めたと主張し、捕まった多くの日本人の友人を助けようと
彼らに罪を負わせることを拒絶した。
自ら日本の民になり、
残りの人生を日本に留まることで
人質となることさえ申し出た。
高橋は
1829年3月獄死し、
自分の身も危ぶまれたが、
シーボルトの陳述は
多くの友人と彼を手伝った人々を救ったといわれている。
しかし、
日本の地図を持ち出すことは禁制だと
彼自身知っていたはずであり、
日本近海の海底の深度測定など、
スパイの疑惑が晴れたわけではない。
シーボルトは高野長英から、
医師以外の肩書は何か、と問われて、
「コンテンス・ポンテー・ヲルテ」と
ラテン語で答えたと渡辺崋山が書いているが、
これは「コレスポンデントヴェルデ」であり、
内情探索官と訳すべきものである。
シーボルトは
安政5年(1858年)の
日蘭修好通商条約の締結により追放が解除となり、
翌安政6年(1859年)に
長男アレクサンダーを伴って再来日し、
幕府の外交顧問となっている。
なお、
2度目の来日中の文久2年(1862年)にも、
秘書役であった三瀬諸淵が、
シーボルトのために
日本の歴史書を翻訳した罪で捕らえられる
という事件が起きている。
一方、
シーボルトの孫娘にあたる
三瀬諸淵の妻楠本高子の手記によると、
原因は他のところにあったとされている。
2020/09/17
岐阜城
9月17日
木曜日
岐阜城
1567年9月17日
(永禄10年8月15日)
織田信長が
斎藤龍興の居城だった稲葉山城に移り
岐阜城と改称。
岐阜城(ぎふじょう)は、
岐阜県岐阜市(旧・美濃国井之口)の
金華山(稲葉山)にあった日本の城(山城跡)。
織田信長が、
斎藤龍興から奪取した稲葉山城の縄張りを破却して、
新たに造営したものが岐阜城である。
城跡は岐阜城跡(ぎふじょうあと)として金華山と、
その山塊の2,091,602.74平方メートルが
国の史跡に指定されている。
その範囲は、現在の国有林の範囲に符合する。
1201年(建仁元年)
二階堂行政が稲葉山に砦を築いたのが始まりとされる。
続いて行政の娘婿・佐藤朝光、
その子伊賀光宗、光宗の弟・稲葉光資が
砦の主となり支配。
二階堂行藤の死後、廃城となる。
15世紀中頃 - 美濃守護代・斎藤利永が、
この城を修復して居城とする。
1525年(大永5年)
斎藤氏家臣の長井長弘と長井新左衛門尉が
謀反を起こして稲葉山城を攻撃。
長井氏の支配下となる。
1533年(天文2年)
新左衛門尉が没すると、
その子、長井新九郎規秀(斎藤利政、後の斎藤道三)が
後を継ぎ、城主となる。
1539年(天文8年)
守護代になっていた斎藤利政が、
稲葉山山頂に城作りを始める。
1541年(天文10年)
利政が守護の土岐頼芸を追放。
1547年(天文16年)
織田信秀、頼芸派の家臣と
稲葉山城下まで攻め入るも大敗(加納口の戦い)。
1554年(天文23年)
利政、
城と家督を嫡子の斎藤義龍に譲り剃髪、道三と号する。
1556年(弘治2年)4月
義龍、長良川の戦いにより道三を討ち取る。
1561年(永禄4年)5月
義龍の急死により、
斎藤龍興が13歳で家督を継ぎ、城主となる。
同年6月
十四条の戦いに勝利した
織田信長が稲葉山城を攻めるも敗退。
1564年(永禄7年)2月
斎藤氏の家臣であった
竹中重治と安藤守就が造反して挙兵。
稲葉山城を攻める。
龍興らは城を捨て鵜飼山城へ逃げ、
竹中らが城を半年間占拠する。
1567年(永禄10年)9月
かねてから美濃攻略を狙っていた
織田信長が西美濃三人衆の内応により
稲葉山城下に進攻(稲葉山城の戦い)。
龍興は城を捨てて長良川を舟で下り、
伊勢長島へ逃亡した。
同年
信長は、本拠地を小牧山城から稲葉山に移転し、
古代中国で周王朝の文王が
岐山によって天下を平定したのに因んで、
城と町の名を「岐阜」と改めた。
この頃から信長は
「天下布武」の朱印を用いるようになり、
本格的に天下統一を目指すようになった。