2020/10/09
自転車屋の生き物歳時記 ハラビロカマキリ
10月9日
金曜日
自転車屋の生き物歳時記
ハラビロカマキリ
私の友人が
ハラビロカマキリを見つけた
と言う投稿を上げていたので
ハラビロカマキリ
奴等の好物は
セミらしいのだが
もうセミはおらんから食えんな😅
ハラビロカマキリ
(腹広螳(蟷)螂、学名:Hierodula patellifera[1])は、
カマキリ目カマキリ科の昆虫である。
標準和名は、腹部が太いことに因む。
体長はオス45 - 65mm、メス52 - 71mm。
他のカマキリに比べ
相対的に前胸が短く、腹部は幅広い。
成虫の前翅に白色の紋があるのが特徴。
前脚には白黄色のイボがある。
前脚基節前縁に3から5ぐらいの突起がある。
体色は緑色の個体が多いが、
紫色がかった褐色の個体も見られる。
春から晩秋にかけて活動。
他の節足動物、小動物を捕食する。
樹上性の傾向が強く、
林縁や草原の樹木の梢上、葉上に生息する。
丈の高い草の花の傍で、
餌となる訪花性昆虫を待ち伏せている姿が
見られることもある。
幼虫は
腹部を背面に強く反り返らせた姿勢をとっている。
雌は木の枝やブロック塀等に楕円形の卵鞘を産みつける。
本種は他のカマキリ、
肉食直翅目にもましてハリガネムシによる寄生が
ひときわ多くみられることで知られる。
国内では関東以南。
東南アジアに
よく似た同属のカマキリは広く分布するが、
日本の個体群と同種、同亜種であるかは未確認。
ムネアカハラビロカマキリ
2017年、
外来種の可能性がある近縁種ムネアカハラビロカマキリ(Hierodula sp.)の分布拡大が指摘されており、
新潟県から宮崎県までの1都1府11県で報告されている。
同じフィールドで両種が競合した場合、
1年で在来のハラビロカマキリの生息密度が希薄となり、
みられる大半が
ムネアカハラビロカマキリになった例が報告されている。
神奈川県立生命の星・地球博物館などの調査により、
中華人民共和国から輸入された
竹箒に付着した卵が孵化して、
日本各地で定着した可能性が指摘されている。
ムネアカハラビロカマキリの和名は、
通称としてあった呼称が
2014年ごろから採用されたもので、
学名は中国の文献に掲載されていた
Hierodula venosaと推測されたが、
これはのちに否定されており、
本種を掲載した図鑑でもsp.のままとしている。
以降もvenosaを使用している資料もあるが
不適切と思われる。
2020/10/09
土偶の日
10月9日
金曜日
土偶の日
楽しみながら
考古学に親しむをコンセプトに活動する
「土偶の日運営委員会」が制定。
運営する
土偶と縄文のポータルサイト「どぐぽた。」などを通じ、土偶に限らず
広く縄文時代の文化について
多くの人にその魅力を知ってもらうのが目的。
日付は10と9で
「土(ど=10)偶(ぐう=9)」と読む語呂合わせから。
他に
トラックの日
道具の日
東急の日
金券の日
塾の日
熟睡の日
熟成肉の日
熟成烏龍茶の日
トクホの日
アメリカドッグの日
散歩の日
ハンドバッグの日
マカロンの日
サイコロキャラメルの日
仙台牛の日
糖尿病とこころの日
秋の高山祭 など
多数の記念日に指定されています❗
2020/10/08
日野富子
10月8日
木曜日
日野富子
1455年10月8日
(康正元年8月27日)
日野富子が足利義政の正室になる。
日野 富子(ひの とみこ)
永享12年(1440年)
~明応5年5月20日(1496年6月30日))は、
室町時代後期から戦国時代前期の女性。
室町幕府8代将軍・足利義政の正室。
父は蔵人右少弁・日野重政、
母は従三位・北小路苗子(北小路禅尼)。
兄弟に勝光(兄)、永俊(11代将軍足利義澄の義父)、
資治(日野兼興の養子)、妹に良子(足利義視室)。
9代将軍・足利義尚の母。
応仁の乱
富子は寛正3年(1462年)と
翌4年(1463年)に相次いで女子を産むが、
男子を産むことは出来なかった。
寛正5年(1464年)に
義政は実弟で仏門に入っていた義尋を還俗させ、
名を足利義視と改めさせ
細川勝元を後見に将軍後継者とした。
しかし翌寛正6年(1465年)に
富子は義尚を出産、
富子は溺愛する義尚の擁立を目論み、
義尚の後見である山名宗全や
実家である日野家が義視と対立した。
これに幕府の実力者である
勝元と宗全の対立や斯波氏、
畠山氏の家督相続問題などが複雑に絡み合い、
応仁の乱が勃発した。
富子は
戦いの全時期を通じて
細川勝元を総大将とする東軍側にいたが、
東西両軍の大名に多額の金銭を貸し付け、
米の投機も行うなどして
一時は現在の価値にして60億円もの
資産があったといわれる。
文明3年(1471年)頃には
室町亭(京都市上京区)に避難していた
後土御門天皇との密通の噂が広まった。
当時後土御門天皇が
富子の侍女に手を付けていたことによるものだが、
そんな噂が流れるほど義政と富子の間は冷却化していた。
文明5年(1473年)に
山名宗全、細川勝元が死去し、
義政が隠居して
義尚が元服して9代将軍に就任すると、
兄の日野勝光が新将軍代となった。
義政は完全に政治への興味を失い、
文明7年(1475年)には
小河御所(上京区堀川)を建設して1人で移った。
文明8年(1476年)に勝光が没すると、
富子が実質的な幕府の指導者となった。
「御台一天御計い」するといわれた
富子に八朔の進物を届ける人々の行列は
1、2町にも達した。
11月に
室町亭が焼失すると義政が住む小河御所へ移る。
しかし、
文明13年(1481年)になって
義政は長谷聖護院の山荘に移ってしまった
(その後長らく義政とは別居)。
文明9年(1477年)に
ようやく西軍の軍は引き上げ、
京都における戦乱は終止符を打ったが、
この翌日、
富子は伝奏・広橋兼顕に
「土御門内裏が炎上しなかったのは、
西軍の大内政弘と申し合わせていたから」という
趣旨の発言をしている。
義尚は
成長すると富子を疎んじ始め、
文明15年(1483年)には
富子をおいて伊勢貞宗邸に移転し酒色に溺れた。
このため富子は一時権力を失った。
しかし延徳元年(1489年)に
六角高頼討伐(長享・延徳の乱)で
遠征中の義尚が25歳で没した。
息子の急死に富子は意気消沈したが、
義視と自分の妹の間に生まれた
足利義材(後の義稙)を将軍に擁立するよう
義政と協議し、
同年4月に合意が行われた。
延徳2年(1490年)正月に義政が没すると、
義材が10代将軍となった。
しかし
後見人となった義視は権力を持ち続ける富子と争い、
富子の邸宅小河邸を破壊し領地を差し押さえた。
翌年の義視の死後、
親政を開始した義材もまた富子と敵対した。
明応2年(1493年)、
義材が河内に出征している間に
富子は細川政元と共にクーデターを起こして義材を廃し、義政の甥で堀越公方・足利政知の子
・義澄を11代将軍に就けた(明応の政変)。
その3年後、
明応5年(1496年)に57歳で死去した。