2020/11/04
慶長の役・第二次蔚山城の戦い
11月4日
水曜日
慶長の役
第二次蔚山城の戦い
1598年11月4日
(慶長3年10月6日)
慶長の役・第二次蔚山城の戦い終結
蔚山城近郊に布陣していた
明・朝鮮軍が退却する。
蔚山城の戦い
(うるさんじょうのたたかい、いさんじょうのたたかい)
1597年および1598年に
慶長の役で明・朝鮮連合軍と
日本軍との間で行われた交戦。
前回の敗戦後、
明軍では本国からの増援を得て兵力は約10万となり、
慶長3年(1598年)8月、
明・朝鮮連合軍は、
東路軍、中路軍、西路軍、水軍、の4軍に分かれて
南下を開始する。
東路軍は蔚山を、中路軍は泗川を、
西路軍と水軍は順天を同時に攻撃する戦略であった。
この内麻貴総兵が指揮する
東路軍29,500人(明軍24,000人、朝鮮軍5,514人。は
9月21日(以下和暦)に慶州を出発。
22日に加藤清正が守備する蔚山倭城を攻撃したが
今回は篭城準備がなされており、
明軍が城を攻撃しても日本軍の反撃により
明軍の被害が増えるばかりで攻略の目処は立たなかった。
麻貴は挑発などを行い
日本軍を誘きだそうとしたが、
城中の清正は守りを固めて出て来ない。
攻略の目処も立たず、
さらに中路軍が泗川の戦いで
大敗したとの報告も届いたため、
10月6日には蔚山倭城より撤退し、慶州へ帰還した。
『明史』によると、
日本軍は偽りの退却をして麻貴の明軍を誘引し、
明軍が空塁に入った時、伏兵が起こり明軍は敗北した。
また『乱中雑録』趙慶男によると、
9月18日(日付は明暦)、
麻貴が明軍を率いて慶州を出撃。
朝鮮軍の金応瑞が
別に東莱へ進撃してから進んで蔚山倭城を攻撃開始し、
防柵などを焼いた。
しかし日本軍の攻撃により明軍の被害は計り知れない。
清正は去年の攻撃を戦訓に防戦の準備を重ね、
堅く守備を固めていたために
明・朝鮮軍は攻めきれずに撤退した。
10月12日、明・朝鮮軍は慶州に到着した。
同じく
慶尚道左防禦使の権応銖が
都元帥の権慄に送った報告によると
「9月19日に麻貴は釜山の日本軍を牽制するために
金応瑞が東莱の温井に赴く、
翌20日から蔚山倭城を攻撃開始した。
明軍は何度も挑戦をしたが、
日本軍は守りを固めて出て来ないため
明軍の被害は数え切れない。
包囲を一旬(約10日間)続けたが
攻略の目処が立たないために撤退した」と記述している。
第二次蔚山城の戦いでは
加藤清正が守りに徹したため、
泗川倭城攻撃し島津義弘の逆襲を受けて
潰走した中路軍や、
小西行長の順天倭城に水陸から総攻撃を実施した後、
兵糧を投棄しながら退却した
西路軍と水軍のような混乱を東路軍ではおこすことなく
比較的整然と撤退した。
朝鮮王朝実録には、
三路の戦い(第二次蔚山城の戦い、泗川の戦い、順天の戦い)において、明・朝鮮軍は全ての攻撃で敗退し、
これにより、三路に分かれた
明・朝鮮軍は溶けるように共に潰え、
人心は恟懼(恐々)となり、
逃避の準備をしたと記述されている。