2020/11/20
週末立ち飲み 木下酒店
11月20日
金曜日
週末立ち飲み
木下酒店
今日はアテが残ってる‼️
スーパードライ小瓶
黒糖焼酎れんと水割4杯
カシワと菊菜の煮物
おでん
(厚揚げ・ロールキャベツ)
おっとっと
2020/11/20
荒木村重の謀反
11月20日
金曜日
荒木村重の謀反
1578年11月20日
(天正6年10月21日)
織田信長に帰属していた荒木村重が謀反。
荒木 村重(あらき むらしげ)は、
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。
利休十哲の1人である。
天正6年(1578年)10月、
三木合戦で羽柴秀吉軍に加わっていた村重は
有岡城(伊丹城)にて突如、
信長に対して反旗を翻した。
一度は糾問の使者
(明智光秀、松井友閑、万見重元)に説得され翻意し、
釈明のため安土城に向かったが、
途中で寄った茨木城で家臣の中川清秀から
「信長は部下に一度疑いを持てば
いつか必ず滅ぼそうとする」との進言を受け
伊丹に戻った。
秀吉は村重と旧知の仲でもある
小寺孝隆(官兵衛、のちの黒田孝高)を使者として
有岡城に派遣し翻意を促したが、
村重は孝高を拘束し土牢に監禁した。
以後、村重は有岡城に篭城し、
織田軍に対して1年の間徹底抗戦したが、
側近の中川清秀と高山右近が信長方に寝返ったために
戦況は圧倒的に不利となった。
その後も万見重元らの軍を打ち破るなど、
一旦は織田軍を退けることに成功するが、
兵糧も尽き始め、
期待の毛利氏の援軍も現れず窮地に陥ることとなる。
それでも村重は
「兵を出して合戦をして、その間に退却しよう。
これがうまくいかなければ尼崎城と花隈城とを
明け渡して助命を請おう」と言っていたが、
天正7年(1579年)9月2日、
単身で有岡城を脱出し、
嫡男・村次の居城である
尼崎城(大物城)へ移ってしまった。
11月19日、
信長は「尼崎城と花隈城を明け渡せば、
おのおのの妻子を助ける」という約束を、
村重に代わって有岡城の城守をしていた
荒木久左衛門(池田知正)ら
荒木の家臣たちと取り交わした。
久左衛門らは
織田方への人質として妻子を有岡城に残し、
尼崎城の村重を説得に行ったが、
村重は受け入れず、窮した久左衛門らは
妻子を見捨てて出奔してしまった。
信長は村重や久左衛門らへの見せしめの為、
人質の処刑を命じた。
12月13日、
有岡城の女房衆122人が尼崎近くの七松において
鉄砲や長刀で殺された。
12月16日には
京都に護送された村重一族と重臣の家族の36人が、
大八車に縛り付けられ京都市中を引き回された後、
六条河原で斬首された。
その後も信長は、
避難していた荒木一族を発見次第皆殺しにしていくなど、徹底的に村重を追及していった。
天正9年(1581年)8月17日には、
高野山金剛峯寺が村重の家臣をかくまい、
探索にきた信長の家臣を殺害したため、
全国にいた高野山の僧数百人を捕らえ、殺害している。
しかし
肝心の村重本人は息子・村次と共に
荒木元清のいる花隈城に移り(花隈城の戦い)、
最後は毛利氏に亡命し、尾道に隠遁したとされる。
天正10年(1582年)6月、
信長が本能寺の変で横死すると堺に戻りそこに居住する。
豊臣秀吉が覇権を握ってからは、
大坂で茶人として復帰し、千利休らと親交をもった。
しかし
有岡城の戦いでキリシタンに恨みを持っていた村重は、
小西行長や高山右近を讒訴して失敗し、
秀吉の勘気を受けて長く引見を許されなかった。
さらに、秀吉が出陣中、
村重が秀吉の悪口を言っていたことが
北政所に露見したため、
処刑を恐れて出家し、荒木道薫(どうくん)となった。
天正14年(1586年)5月4日、
堺で死去。
享年52。
2020/11/19
明徳の和約
11月19日
木曜日
明徳の和約
(南北朝時代の終結)
1392年11月19日
(明徳3年/元中9年閏10月5日)
明徳の和約。
南朝の後亀山天皇が
北朝の後小松天皇に三種の神器を譲渡し、
日本の南北朝時代が終結。
明徳の和約(めいとくのわやく)は、
南北朝の内乱の講和条約で、
南朝(大覚寺統)と北朝(持明院統)との間で、
和議と皇位継承について締結された約定。
南北合体条件(なんぼくがったいじょうけん)とも。
南朝の後亀山天皇より
北朝の後小松天皇への「譲国の儀」における
神器の引渡しの実施。
皇位は両統迭立とする
(後亀山天皇の弟泰成親王(後亀山の皇太弟)
・小倉宮恒敦(後亀山の皇子)など
南朝系皇族の立太子)。
国衙領を大覚寺統の領地とする。
長講堂領を持明院統の領地とする。